Nスペ 「沖縄 よみがえる戦場」〜読谷村民2500人の証言〜 2005年6月18日(土)午後9時〜9時52分
沖縄戦終結からまもなく60年を迎える。
米軍が上陸し、悲惨な地上戦が展開された沖縄。その沖縄で60年間沈黙を守ってきた読谷村の人たちが、村史編纂のインタビューを機に、重い口を開いた。
Nスペ 「沖縄 よみがえる戦場」〜読谷村民2500人の証言〜太平洋戦争末期の沖縄戦では、3か月に及ぶ日米の激しい戦闘で20万人以上が犠牲となった。うち一般住民の犠牲者は約10万人。猛烈な地上戦は、沖縄の住民の4人に1人の命を奪っていった。
昭和20年4月1日、米軍が上陸した読谷(よみたん)村では、多数の住民が、地上戦の極限状態の中に最初に陥れられた。「畳一畳に一発」といわれた激しい砲弾の雨、米軍の包囲が狭まる中での集団自決、原生林を逃げ惑う中での飢餓やマラリア、味方であるはずの日本軍から受けた虐待……。読谷村民の犠牲者は、3000人を超えた。そして、生き残った村民たちは、家族、仲間が次々に命を落とした過酷な地上戦の実態について、戦後、長く口を閉ざしてきた。
読谷村では、戦争に巻き込まれた村民の運命を後世に伝えるために、沖縄戦の体験者からの聞き取り調査を行い、14年がかりで2500人に及ぶ証言を集め、去年2000ページの戦時記録にまとめた。
60年前、地上戦の戦場という“逃げ場のない地獄”にさらされ、家族、住まい、ふるさと、すべてを奪われていった人々。読谷村の戦時記録に記された村民たちの証言をもとに、60年前の沖縄戦の実態を住民の視点で描き出す。
番組では、読谷村史の記録から、何人かを選び、カメラの前でインタビューを試みる。
一人は、チビチリガマの惨劇の生き残りだ。以前、沖縄に行ったとき、チビチリガマの集団自決について教えて貰った。その時夫と子どもを失った母親が、その当時と同い年になった孫に自分の経験を話す。これまで家族にも明かせなかった辛い話だ。
さらに衝撃的なのは
友軍に襲われた集落の生き残りの二人が60年ぶりに相まみえるシーン
だ。同じ日本人同士が疑心暗鬼に駆られて、武装した軍人達が、民間人を嬲り殺す。その悲劇から生き残った一人は、友軍の放った手榴弾の破片を全身に受けた、当時四歳の幼女。もう一人は、その幼女の前にいた当時二十八歳の主婦だった。四歳の幼女は、惨劇を憶えていない。当時八歳だった兄は、惨殺された父の姿、浜で手榴弾で殺された人々の様子などを見て憶えていた。夫が虐殺された様子を目にした母親は、精神の平衡を失い、兄もまた、妹に当時の様子を伝えた後に、やはり精神を病む。妹は沖縄を捨て、本土に移り住んでいた。
二十八歳の主婦は、たまたま最前列にいたために、手榴弾を浴びずに済んだが、人々の凄惨な殺戮を目にした。四歳の幼女の父親が、柱に縛られ、短刀を突き刺されて死んでいるのを見た。浜で手榴弾で首や四肢を失った人たちを見た。そして、四歳の幼女が、全身血だらけになり、米軍に箱に入れて運ばれていったのを見た。それから二人は会うことはなかった。
今回の取材を通して、この二人が会った。当時二十八歳の主婦は、今も手榴弾の傷跡の残るその当時の幼女の頭を優しく撫で、二人はウチナーグチで、話し合う。心の奥にある思いは、ウチナーグチでしか伝えられないのだ。誰にも話すことのできない惨劇の記憶を、時を超えて、二人は語り、辛い心の傷を癒し合うのだ。
番組では、同じ日本人同士、しかも軍人が民間人を殺したこの事件について、もう一方の当事者である軍関係者については、あまり触れない。これがヤマトンチュの番組制作の限界か? ウチナンチュの人たちは、こんな程度で許してくれるのか? そうではあるまい。
沖縄の辛さは、友軍が裏切ったから、いや増しに増した。その罪を、本土にいるわたしたちは、感じたことがあるのだろうか? いつも、沖縄を踏みつけにして、本土は平気でいるのではないか。今回のNスペも、事実が重い分、ヤマトンチュの身勝手さが透けて見えるのだ。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント