恩師が亡くなる
昨日、大学の同級生から連絡が来た。合掌。
京都大大学院教授の吉田城さん死去
2005年06月25日23時29分吉田城さん(よしだ・じょう=京都大大学院教授・フランス文学)は24日、腎不全で死去、54歳。通夜は26日午後7時、葬儀は27日午後1時から京都市南区西九条池ノ内町60の公益社南ブライトホールで。喪主は妻典子さん。自宅は公表していない。
仏作家マルセル・プルーストの研究者として知られる。
吉田城先生をわたしたちは仲間内では「ジョー」と呼び捨てにしていた。呼ぶときは、城先生と名前でお呼びしていた。誰も吉田先生とは呼んでなかったように思う。
城先生は、京大でも新入生のクラスの平均年齢が法学部のあるクラスの次に高いといわれるL4のフランス語を担当していた。わたしたちのクラス担任はやはりフランス語の山田稔先生で担当は文法(A)と講読(B)、外人実習(C)はイブ・マリ・アリュー先生、城先生が担当してたのは「仏作文(D)」という科目だったと思う。L4はフランス語が第一外国語で週四時間、英語もしくはドイツ語が第二外国語で週二時間という配当であった。よそのクラスより外国語の時間数が一時間多いのは二回生でも続く。それでも足りなくて、五齣目の八時間コースを取る強者もいた。いま、ドイツ語の先生になってるMちゃんは、八時間コースをとって、かつドイツ語を他でも取ってたように思う。
城先生が京大に赴任された年に、わたしたちは入学した。城先生は、最初は教養部のフランス語の先生だった。しかもまだ文法を習ってる最中の一回生に仏作文を教える、という
どう考えてもめちゃくちゃなカリキュラム
の授業を担当されていた。夏休みに仏作文の課題が出て、ランボーを読みふけっていたわたしは、俗語と卑語の多い作文を書いて叱られた。
城先生は、学部は京大だが、大学院は東大だ。なぜ、そうなったは、ご本人が授業でおっしゃっていた。
院試でフランス語の長文問題が出て、なんだ、簡単だな、と思って頭から訳していったら、最後に「この文章について論評せよ」という設問がついていた。で、時間が足りなくて、落ちた。
ま、城先生らしいエピソードだ。京大に赴任される前にマンションを探していたら、大家さんが
うちは、大学の先生とか、堅いお仕事の方が借りてはるんですが
と頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見られた、と憤慨してたが、その時の服装は
革のロングコート
だったそうで、大家さんが警戒するのも無理はなかろう。ま、わたしたちが知ってる教養部助教授時代の城先生は、細かいエピソードには事欠かず、今回、お花をお贈りするのに奔走してくれている同級生が、
城先生がわかる名前でお花を贈ろう
と、あれこれ頭を悩ませたのも、理由のあることなのである。学生とはそれほど年が離れてなかったので、大変愛されていた。わたしたちのクラスは変なクラス、といわれていて、学部に上がってからも
教養のクラスコンパ
をやっていた。一度、教養でだったか、学部でだったか、城先生をお招きしたのだが、
へ〜、教師を呼ぶの? 珍しいコンパだね〜
と仰っていた。
城先生はプルーストがご専門だったが、フランス留学して、真っ先に参ったそうだ。
タクシーの運転手が、プルースト読んでるんだもんなあ。そんな本なんだよ、『失われた時を求めて』ってさあ
と、これまた確か二回生で受けた中級フランス語講読の授業で話された。その時読んでいたテキストは
ポール・クローデルのオランダ絵画論
だった。これは、城先生にとっては不運なことに、その年の6月に、渡辺守章訳で
闇を熔かして訪れる影 オランダ絵画序説
として出版されたので、札幌の紀伊国屋で偶然見つけて買ったわたしが、城先生のクラスを取ってる連中に知らせて、コピーを回した。当時、わたしはすでに不登校学生になっていて、自分が当たるときでない限り、あまり出席してなかったのを城先生はよく知ってたから、
あなたは、授業には出てこないクセに、こういう物を見つけるのは早いねえ!
とたっぷり皮肉を言われた。
城先生が、このポール・クローデルのテキストを選んだのは、ご本人がフェルメールのファンだったからだ。アムステルダム国立美術館には、数少ないフェルメールの絵画のうち五点が収められているが、それを見に足を運んだときのことを、授業中に話してくださった。確か、フランドルの記述のあるところで、話が始まったのだったと思う。フェルメールの絵画の前で、時間を忘れてたたずんでいたこと、フランドルの風土などについて、熱心に話されていた。
子どもの頃からフランドル絵画に興味を持ち、現地に行きたいと思いつつ、今もまだ果たしてないのだが、そのうち行く機会があるだろうか。もし、行けたなら、城先生の受けた感激を、少しは共有できるだろうか。
わたしは仏文には進まなかったので、偉くなってからの城先生については、あまり知らない。ただ、あまり体調がすぐれない、という話はかなり前からあって、面差しがすっかり変わってしまった城先生に、学内やシンポジウムなどですれ違ったことはある。
研究者は、内臓を病む人が少なくない。病を養いつつ、鬼気迫る仕事を続けられていた城先生のご冥福を心から祈る。
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