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2005-08-27

平城京は広かった? 定説を覆す発見

研究会が終わった後、お茶を飲んでいたら
 今日、平城京南辺のすごい発表があるよ
と概略を教えて貰った。歴史の教科書がまさに書き換わる発見だ。


平城京、通説より広かった 造営当初は南に400メートル

平城京の南端とされていた「九条大路」の外側にある下三橋遺跡(1)。羅城門跡(2)、朱雀門(3)=26日午後、奈良県で共同通信社ヘリから
http://www.sankei.co.jp/news/050826/bun068-3.jpg

平城京の南端とされていた「九条大路」外側の下三橋遺跡から見つかった道路遺構。人の集まっている部分が交差点=26日、奈良県大和郡山市(共同)
http://www.sankei.co.jp/news/050826/bun068-2.jpg

発見された遺構の概念図
http://www.sankei.co.jp/news/050826/bun068-1.jpg

 平城京(710—784年)跡の南側に位置する奈良県大和郡山市の下三橋(しもみつはし)遺跡で、碁盤の目状に区画整理された奈良時代初頭(8世紀初め)の道路遺構が見つかり、同市教委と元興寺文化財研究所が26日、発表した。方角や道幅が京内の都市計画「条坊制」と一致しており、造営当初の平城京がこれまで考えられていた東西4.3キロ、南北4.8キロより少なくとも南に約400メートル広かったことが分かった。
 明治時代から100年間、通説となっていた平城京の復元図を書き換える発見。京の外郭を区切る城壁・羅城(らじょう)跡も日本で初めて確認した。古代日本の都市計画や平城京の造営過程を研究する上で重要な資料になりそうだ。
 大規模店舗建設のため、平城京の南端とされていた大通り「九条大路」の南側約1万2000平方メートルを調査。土器などから、道路は藤原京(694—710年、奈良県橿原市)から遷都して約20年後、意図的に埋められ整地されたとみられる。
 大和郡山市教委は「平城京は当初、南北10条で計画され、何らかの理由で9条に変更されたのではないか。道路を埋めた後、十条大路の南側にあった羅城を9条大路の南側に造り直した可能性もある」と話している。
 都を南北に貫くメーンストリート「朱雀(すざく)大路」の東側に平行して造られた「東一坊大路」の延長部分など、幅22.7メートルと同8.5—8.7メートル、同7メートルの3種類の道路遺構計5本と交差点二つが見つかった。
 この区域は後に地割りされて水田となり、道路遺構は完全に埋もれていた。

 羅城跡は、既に発見されている平城京の正門「羅城門」跡から約520メートル東で見つかった。柱穴が2列に並んでおり、門か築地塀があったらしい。これまでは地形などから、平城京の羅城は羅城門から東西にそれぞれ133メートル分しかないと考えられていた。
 現地説明会は9月3日午前10時から。(共同)

◇  ■平城京 710—784年までの都。東西の大路「条」と南北の大路「坊」で区画され、北端中央には天皇の住まい「平城宮」があった。京域は現在の奈良市から奈良県大和郡山市に広がり、大陸文化の影響を受けた建築、絵画、工芸など華麗な天平文化が花開いた。東西に諸国の産物を交易する市が立ち、京の内外に興福寺や薬師寺など諸大寺があった。当時の人口は10万人とも20万人とも推定されている。

 ■条坊制 中国の都城制度にならって古代日本の都に取り入れられた碁盤目状の都市区画。平城京では、平城宮から南に延びる朱雀大路(すざくおおじ)を中心に東の左京と西の右京に分け、北西辺(北辺坊)と東辺(外京)に張り出し部が作られた。東西方向の大路を北から南へそれぞれ1—9条、南北方向の大路を朱雀大路に近い方からそれぞれ西1—4坊、東1—7坊と呼んだ。平城京の前に都だった藤原京(奈良県橿原市)は南北12条、東西8坊が通説だったが、近年の調査で、平城京や平安京(京都市)を上回る規模だったことが確認された。(共同)

(08/26 19:12)


大路も小路も出てきてるから、京域が大きくなるのは確定だが、
 羅城の外側の条坊
というあたりがポイントだ。なおかつ
 平城京の羅城が実際に出てきた
というのが凄い。これまでは
 本当にあるのか?
と議論を呼んでいたが、今回の調査結果で 
 全体を囲んでいたのではなく、羅城門の周辺の一部だけに羅城があった
というのがほぼ確定したと見ていいだろう。所謂
 映画セット並の「見せ羅城」
である。

で、ちょこっと小耳に挟んだ話では
 条坊は綺麗に出たけど、あまり人の住んでた跡が残ってない
という。つまり
 住居があった跡が少ない
んだって。
平城京のこれまでの南端である九条大路だけど、
 ヘンな地域
なので、注目はされていた。都の端は、陰陽道を持ち出さなくても
 妙なことがいろいろ起きる場所
だ。ついこないだも
 五徳池のあたりがね〜
という話を井上和人さんとしたばかりだった。いや、楽しみだな。これからの研究。

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