高松塚古墳 点検日誌なし 信じられない杜撰な運用
今年三月、奈文研から、二十数年前の遺跡の発掘報告書が出た。なぜそんなことが可能だったかというと
きちんとした作業日報が残されていたから
である。普通は、どんな作業であれ、日報をつけるのが習いになっている。
ところが、文化庁は、貴重な文化財である高松塚古墳の壁画を点検する際に日誌をまったくつけてなかったという。その時期は、
保存施設が稼働し始めた1976年から1989年の14年間
の長きにわたる。こんな杜撰な運用を許したのは誰か。文化庁の過去の職員名簿を精査すれば、その時の高松塚古墳担当職員の名前は簡単に割り出せるだろう。担当職員と直属の上司が日誌をつけなくなる前の担当者から、きちんと引き継ぎをしてなかった可能性が高い。
三年で部署を異動するのが役所だが、文化財行政でそれはマズイのじゃないのか。
読売の報道より。
高松塚の点検日誌、76年から14年間制度化せず奈良県明日香村の国宝、高松塚古墳壁画(8世紀初め)の劣化問題で、文化庁は同壁画の保存施設の稼働が始まった1976年から89年まで14年もの間、点検日誌の作成を“制度化”していなかったことが、関係者の証言などでわかった。
このうち、86〜89年の4年間は文書の記録そのものを残していなかった。劣化の深刻化を見逃した要因になったともみられ、同庁の杜撰(ずさん)な管理態勢が改めて浮き彫りになった。同壁画は現状のままでは劣化を防ぐことはできないとして、石室を解体して修理を行うことが決まっているが、文化庁の管理責任を問う声が改めて高まりそうだ。
読売新聞が情報公開法に基づき、文化庁に対し壁画発見(1972年)以来の点検日誌の開示を請求したところ、76〜81年と83年の修理日誌、90年以降現在までの点検・修理日誌、計1311ページ分が「すべての資料」として開示された。
このうち、76〜81、83年の日誌は、当時、東京国立文化財研究所(現東京文化財研究所)に所属して、壁画の修理を担当していた増田勝彦・昭和女子大教授(保存科学)が付けていたもの。76年から85年にかけては、壁画の剥落(はくらく)止めの修理作業が実施されており、開示された資料には、その作業経過が記録されていた。増田氏は「修理の記録はすべて付けていた」としており、82、84、85年の日誌が行方不明になっていることになる。ただ、これらの資料は増田氏が修理を行う必要上、いわば個人的に記録していたものだった。
90年からの日誌は、青木繁夫・同研究所国際文化財保存修復協力センター長が「正式な形で記録を残しておいた方がいい」と考え、書式を定めて事実上、制度化したもの。これらの資料は同研究所に保管されていたが、2001年にカビが大量発生して以降、文化庁に移管された。
壁画の発見以来、文化庁文化財調査官、美術工芸課長などとして通算30年近くにわたって壁画の保存対策にかかわり、現在は同壁画の「恒久保存対策検討会」の座長を務める渡辺明義・文化審議会文化財分科会長は「当時、点検結果を記録に残せという指示は出していなかった。厳格さを欠いていたという指摘はあるかもしれない。いま考えれば甘かった」と話している。
一方、文化庁の下坂守・美術学芸課長は「確かに文書での記録を残していない時期もあるが、点検のたびに撮影した写真は保存されている」と釈明している。(2005年10月3日3時4分 読売新聞)
信じられん!
高松塚古墳保存問題は、もう一遍洗い直した方がいいんじゃないのか。
失敗に学ぶ
のは、世の常だが、官僚は
失敗は糊塗する
からな〜。出世に響くからだ。かくして
誰も責任を取らないまま、貴重な文化財が劣化の一途をたどった
のである。今頃、慌てて泥縄式にやってるけど、そんな金を掛けるくらいなら、早期に
フレスコ画の修復に倣って、壁画を剥がして保存
した方が、よほど壁画のためにもなったし
税金の無駄遣い
をせずに済んだ。この
コスト意識の欠落
は、
自分の懐から出てない金だから
か?
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