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2006-01-07

林巳奈夫先生逝く

林巳奈夫先生が元日に亡くなられた。合掌。
産経より。


林巳奈夫氏(京都大名誉教授、東洋考古学)

 林巳奈夫氏(はやし・みなお=京都大名誉教授、東洋考古学)1日、急性心不全のため死去、80歳。自宅は神奈川県藤沢市鵠沼桜が岡2の1の26。葬儀は5日午後0時半、同市鵠沼藤が谷1の1の34、湘和会堂鵠沼で近親者だけで行う。喪主は妻、真弥子(まやこ)さん。
 中国・殷周時代の青銅器研究で日本の第一人者。京都大が戦前・戦中に収集した膨大な資料を系統的に研究し、青銅器の図像を集大成した。また玉器や画像石などから古代中国の思想や生活史を解き明かし、中国の研究者にも大きな影響を与えた。

(01/05 05:00)


漢代研究は、林先生が編集された
 『漢代の文物』 京大人文科学研究所1976 新版は朋友書店1996
なしには進まない部分がある。もちろん、林先生が『漢代の文物』を編集された頃よりも、考古学的な研究は進み、画像や文物に関する認識も高まっているのではあるが、それでも『漢代の文物』の価値が下がるわけではない。

『漢代の文物』に関する、杉本憲司教授の思い出。人文科学研究所所報「人文」第四六号 1999年11月18日発行より。


人文研と私

杉本 憲司    

 人文研との出会いは,終戦後まもなくの頃で,日本考古学協会の大会が人文研二階の講堂で行われ,その日夕方から水野清一先生が中心になって,中国考古学に関心ある人々が一階会議室に集り研究発表があった時に,もぐりこみで話しを聞いた時と思う。その後,早くから存じ上げていた岡崎敬先生の研究所東北隅にあった研究室にかよい,本を見せていただきながら,新しい中国の情報,更に,当時,水野・長廣敏雄両先生が手がけていらっしゃった雲崗石窟の報告書の作成,イヤパの調査の準備から出発,帰国などを横目で見ながら,部屋にこられる多くの先生方の話しを聞かせていただいていた。このような状態が,私の大阪大学の学部・大学院時代,人文研の助手が岡崎先生から林巳奈夫先生と変っても続いていた。特に夏休みなどは毎日のように人文研にかよったことがあり,八月一六日の大文字の送り火の時には,水野先生の奥様からジャージャー麺のご馳走があったこと思いだす。

 その頃,長廣先生が漢代の芸術と思想班の研究会を始じめるので,これに参加しないかと樋口隆康先生を通じておさそいをうけ,早速これに参加させてもらうことになった。この時には高校教師をしていたので,週一回の研究日をいただき,当時,中国考古学関係の本を私的に二人で読んでいた秋山進午さん(大手前女子大)と共に参加し,研究会の講読だけでなく,画像石拓本の整理,写真による画像石画題別分類整理なども行った。この研究会は夕方から始じまったので帰宅が夜おそくになったことを思いだす。その後,研究会が画像石から画論に研究の中心が変っていった頃から,別に林先生を中心に,文学部の樋口先生の研究室で,樋口先生,秋山さん,西川幸治さんと共に『三禮図』を読みはじめた。これが,後に人文研の林先生の研究班につながり,『漢代の文物』という名著を生むことになった。その後も林班の研究会に続けて参加し,林先生退官後は,永田英正さんが中心になった漢代石刻碑文会読の班に加わり,これが今日の梅原郁さんの法制史班,冨谷至さんの辺境出土木簡の研究班に続いているわけである。(以下略)


文献資料と出土文物とをつきあわせて、時代を読み込む作業は、この頃から盛んになったのだ。今では普通に行われているこうした手法は、林巳奈夫先生を始めとする先学の功績なしには語れない。たとえそれが文学作品であったとしても、文物の実態を抜きにして解釈を加える、字義だけで理解するのでは、漢代の理解は難しい。
いかなる冷僻字であっても、その文字が成立するには、それだけの必要があったのだ、ということを、『漢代の文物』を繙く度に、考えざるを得ない。今、毎年のように中国に調査に行くようになり、多くの遺跡や文物を見る機会に恵まれているが、見たものをしかと認識するためにも、常に『漢代の文物』を始めとする一連の書物をひっくり返している。和書よりも中国書が多いが、そうした中国書を読む度に、林先生の文物研究の大きさを思わずにはいられない。

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