米山俊直先生ご逝去
米山俊直先生が亡くなられた。合掌。
朝日より。
京大名誉教授の米山俊直さん死去 文化人類学広める2006年03月20日12時22分
京都大名誉教授で文化人類学者の米山俊直(よねやま・としなお)さんが9日、胃がんのため死去した。75歳だった。密葬は19日親族ですませた。自宅は非公表。
1930年、奈良県生まれ。日本では歴史の浅かった文化人類学を一般に広めた。長年、日本各地の生活・文化やタンザニアなどでの半農半牧、農耕社会の現地調査に従事した。
また、京都の祇園祭や大阪の天神祭などを切り口に、大都市に住む人々の暮らしとの関係や、祭りの役割などについて調べた。
「同時代の人類学」「祇園祭」「都市と祭りの人類学」など著書多数。大手前女子大学(現大手前大学)学長を務めた。国際京都学協会理事長。
「文化人類学をやりたい」と思って京大に入ったら、その当時の京大には、文化人類学専攻はなかった。その代わり、教養の頃、よく顔を出したのが、米山先生の研究室だった。
「文化人類学は、自分で勉強する学問分野だ」
というのが米山先生の口癖だった。むしろ、専攻が作られることで、文化人類学のもつ豊かな可能性が損なわれることを危惧されているようだった。
わたしの最初の調査は「神戸まつり」で、一回生の5月、一番調査希望者のいない西神地区に行った。「祇園祭」「天神祭」に続く「関西の三大祭」調査だった。生協で野帳を買い、一澤帆布に行って、調査用の鞄を求めた。最近もめ事の多い一澤帆布は、先代の時代で、今とは違い、厚手でがっちりとした野外調査・山岳用の帆布の鞄を作っていた。当時から高価だったが、縫製がしっかりしていて、簡単には壊れない。壊れたら修理してくれる。米山研に出入りしてた学生の何人かは、一澤帆布の鞄を使っていた。一回生の頃の最初の調査と、今現在も行っている調査と、基本はあまり変わってない。変わったのは、デジカメが増えたことくらいだろうか。野帳をカードに落とすことはしなくなったが、出来るだけ早い時期にメモをパソコンに書き込むようにはしている。
米山先生は、奈良のご出身だが、おそらく大峯山の近所だろう、と思う。どこか村名を口にされたように覚えている。
「僕の田舎では、成人式に、西の覗きから身を乗り出さないと一人前とは認められないのだけど、僕はそのイニシエーションを終えてないから、未だに一人前じゃない」
と講義で仰っていた。
筆が立つので、原稿の依頼が多く
「僕は文筆業」
というのが口癖だった。おそらく京大の俸給よりは、原稿料の振り込みの方が多かったのではなかったか。
わたしは、北海道出身というのを珍しがられて、顔を覚えられていた。卒業してから随分経ってから、日文研でお目に掛かる機会があったとき、
「あ、あなたは北海道から来た」
と思い出してくださった。
ダンディーで優しい先生だった。
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