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2006-03-12

下三橋遺跡 平城京の羅城と十条まであった都市計画

今日の奈良は朝から雨。

これだけ降ってるけど、やるかな〜、と思いつつ現場へ。行きは奈良交通のバスで「ダイワハウス」下車、歩く。→Map

おお、ちゃんと現説やってるなあ。やってるのはいいけど、雨は吹き降り。現説には最悪の天候だ。昨日の明日香村現説四本勝負が絶好の現説日和に恵まれたのに比べると、今日は寒さが骨身にしみる。聞く方は傘を差しているからいいけど、説明する大和郡山市教育委員会・元興寺研究所の方達は大丈夫か。風邪など引かれませんよう、お祈りしてます。

今回の現説のポイントは二つ。

1. 平城京九条の南に設けられた「羅城」は、掘っ立て柱の塀に瓦を載せただけの「張りぼて」で、全長は1kmしかなかった。作られたのは750年頃。780年頃にはこの長大な塀は廃棄された。

2. 平城京は当初、十条までは計画されていた。使われている物差しが一尺=35cmの大尺で、この大尺が廃止されるのが713年。したがって、平城京プランがつくられた時期には十条まではすくなくともあったのが、ほぼ今回でてきた九条以南の道路遺構から推定できる。実物の十条大路が出てくるとすれば、次の発掘。九条以南の都の道路が廃棄されたのは730年頃で、その時に道路側溝が埋められた。ただし、道路側溝が埋められたあとも、一部の道路は道路として機能していた。

面白かったのは、道路の側溝などから出てきた

 祭祀遺物

だ。人面土器に土馬、解体されて一部分だけをばらまいたらしい馬の遺骸だ。質問したところ

 ある一点にではなく、広い範囲にわたって出土したものだ

とのことだった。他には「福」と書かれた墨書土器や皇朝十二銭の一つ「神功開宝」(天平神護元年 765)などが展示されていた。馬は、下顎がほぼ完全な形で、別な場所からも出ていた。馬の下顎は、昨日の明日香村・石神遺跡からも出土しているが

 馬の脳を皮なめしに使う

ということなので、

 呪術的な意味と言うよりも、皮革加工の工房が近所にあった

のかも。

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