異民族の学と漢民族の学
印度学から中国学に移ったとき、一番気持ちが悪かったのは
古い文献に書いてあることは疑ってはいけない
という、判断停止した態度だった。確か、南朝・梁の『経律異相』を勉強していて、歴代の経録調査をしているときに、聞かされた言葉だ。
道安録を疑うと、中国仏教史が成り立たない
という文脈で聞いたのだと思う。
以後
正史に書いてあることは正しい
とか、いろいろ変な決まりがある分野だというのを身を以て体験した。
印度学は、異民族の学なのでその点遠慮がない。もちろん、印度学にも
インド人研究者
は存在して、その中には
サンスクリット原典を丸暗記している
という人々もいて、彼らの多くは
インド中華思想の持ち主
である。で、学会で
インド中華思想に則った主張(たいていは質問の形式でなされる)
を聞かされて、そのたびに
印度学が異民族の学でよかった
と胸をなで下ろすのである。
そういう観点からすれば、中国学というのは、
漢民族の学
であって、
夷狄はすっこんでろ!
という側面が今でもある。新儒教とでもいうのか、変な
新しい民族主義的思想支配
をもくろんでるらしい中国では、その手の国際学会が開かれるんだけど、玉石混淆だ、という話を聞いた。
そういえば
中国人に非ずんば、漢文は読めるわけない
と、今の中国人学生は思ってるらしい。嘘をつけ。京大の池田先生が、西安で
学生が最初バカにしていた
というのを伺って、驚いた。そういうのを
夜郎自大
というのだ。日本人より漢文の読めない中国人というのはたくさんいる。民族の問題ではなく
学習の仕方
に問題があるのだ。
ま〜、このあたりの
中華思想
を変えていかないと、中国の古典研究はどんどん先細りするだろうな。日本の古典研究は、風前の灯火だけれども。漢字を知らない連中を騙すには、漢字は神秘的アイテムだろうけどね。今、中国にある古典学って
曲学阿世でなければ生き残れない
から、非常に気の毒ではあるんだけれども。そのあたりのフィルターを掛けて、論文を読まなければならない不幸は、いつになったら解消されるのだろう。
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