日本考古学/古代史の中国文献扱いの「弱さ」
一昨日、『医心方』研究班に行った。前日、徹夜だったせいで、半分以上居眠りしていて、申し訳なかったのだが、その時、軽く話題になったのは
なぜ、日本考古学/古代史の人達は、中国文献を扱うのに、あんなにいい加減なのか?
という話だった。
これまで藤原京や平城京などから出土している木簡には
中国医学書からの引用
とされているものがいくつかあるのだが、その中には
唐・孫思邈[しんにょう+貌]の『千金翼方』が出典
とされてるものがある。ところが、話は簡単ではない。『千金翼方』という書物自体が、唐代の早い時期に存在したかどうかすら怪しく、後に編集されてできた可能性がある書物なのだ。つまり、孫思邈[しんにょう+貌]の在世時には、到底
存在したとは考えられない書物
なのだが、平気で、藤原京・平城京木簡の典故として用いられているのは、中国医学史研究の立場から言うと、おかしい、という話なのだった。慎重な研究者は
宋代に『千金翼方』というのなら、間違いなく存在するけど、唐代の藤原京・平城京とかぶる時期には、無理だ
と考えている。
もう一つの問題は、
『千金翼方』自体が、他の先行する処方の寄せ集め
という点である。つまり、『千金翼方』に出ているからといって、孫思邈[しんにょう+貌]の独創ではない。したがって、引用する際には
『千金翼方』にも載っている処方
とは言えるが、
『千金翼方』が出典
ということは出来ないわけなのだ。
確かに、『千金翼方』という書物は便利で、大抵の
あるといいな、と思われるような処方が載っている
のだけれども、書物の性格があやふやで、唐代の孫思邈[しんにょう+貌]在世時には遡れない以上、藤原京・平城京木簡の典故として使うのは、
文献学上は危険というより、アウト
なのである。とある大先生が、
googleで検索したら確かにひっかかった
というようなことをちらっと書いておられたが、それではイケナイのだ。まずは
その書物がいつ成立したか
をきちんと押さえてから、典故として用いるべきなのだ。だから、一番穏当なのは
唐・孫思邈[しんにょう+貌]『千金翼方』にも同様の処方が見えるが、『千金翼方』がこの木簡に先行して成立していたとは言えないので、あくまで参考として言及する。
という引用態度だろう。
飛鳥・藤原・奈良時代の薬物の処方は、個々の処方が何らかの形で、朝鮮半島経由で伝わっていた、と見るのがよさそうだ。便利な書物があるからと言って、すぐに飛びつくのは、
実用書である医学書の場合、危険
である。医学は実践の学問で、医学書は、伝写の過程で、いろんな編集や改変が何度もなされている場合が多い。特に、中国医学では、唐代以前と宋代以降は分けて考えなければならず、その当たりの基本的な認識を欠くと、医学史研究者から、厳しく批判される。
そのことを、一昨日よく学んだ。
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