« ばらまき? 軍事転用可能な技術に熨斗つけて流出させるのに荷担? 「アジアの留学生へ月額20-30万円の無償奨学金」 (その2) 文科省と経産省に電話してみました 黒幕は江沢民と親しい二階俊博経産省という噂 | トップページ | ランダエタ対亀田戦 10月に再戦 »

2006-08-22

完全に治療できない、ということ

医療訴訟の起こる前提として、
1. 医師と患者・患者の家族との間で言葉が通じない
2. 医師と患者・患者の家族との間で共通の理解がもてていない
ということはあるだろう。言葉が通じない例は、たとえば
 交通事故でけがをした。いくら治療を受けても「完全に元通り」にならない
時に起こる。医者の治ったという判断と、患者の治ったという実感は常に隔たりがある。
共通の理解がもてない例は、たとえば
 ある手術をすれば、たいていの患者はそれで問題なくその症状が消えるが、残念ながらそうではない症例もある
ときだ。後者は、わたしが5歳〜6歳の間に三回受けた外斜視の手術でも起こった。

一度目の手術で、外斜視はあっさり解消されて、両眼視の訓練をする、というのが、その頃の小児眼科の標準的な治療だったと思う。今でもそうだが、小児眼科は殺人的に混む。6時間待ちは当たり前だ。1歳半から眼科に通い続け、手術は5歳ですることになった。今は子どもの斜視はもっと早くに手術を済ませるので、以前ほど、問題は起きにくくなっているだろうと思う。主治医はその当時、小児の斜視では権威と言われた先生だった。

ストレッチャーで手術室に運ばれると、麻酔の先生に
「りんごのにおいがするからね」
と言われたが、においを確認するまでもなく、あっという間に眠ってしまい、その後、なかなか目が覚めなかった。
麻酔から覚めた後は、副作用で何も食べられず、点滴を受ける日々が続いた。
やがて、眼帯が外され、見え方をチェックすることになった。
ところが、
 モノが二つに見える
のである。「複視」と呼ばれる症状だ。手術はうまくいかなかったのだ。
すぐに次の手術が行われた。しかし、思ったような成果が得られなかった。
いったん退院し、翌年、もう一度手術を受けた。やはりダメだった。

変な話なのだが、最初の手術前から、漠然と「治らないんだろうな」という予感めいたものがあった。五歳児の直感なんて、あてにはならないけれども、事態はその通りに推移した。

左目でモノを見る生活になったが、他にもいろいろな問題がある弱視なので、矯正視力は、どんどん落ちた。とはいえ、付いてるだけの右目がなくなると、もっと凄いことになるのだ。人間の身体は、良くできていると思う。

それから20年ほど経って、北大眼科に通っている頃、当時のカルテを取り寄せて見てくれた。
 どうしてこんな手術をしたのかわからない
とその時の主治医に言われた。右の眼球を動かす6本の筋肉のうち、3本が切断されていると聞いた。
 これは手術しても治らない例かも知れない
とも言われた。手術が済んで20年も経ってからセカンドオピニオンを聞いても、あまり意味はないのだが、この話で、悩みの種が増えた。

子どもの頃、一緒に同じ眼科に通っていた子どもでも、治る子どももいれば、斜視が元で廃用性弱視になる子どももいた。いまより手術の適用年齢が遅かったから、訓練しても両眼視できず、廃用性弱視になる子どもは多かったように思う。
廃用性弱視になると、眼科に通う子どもが減る。治らないからだ。ひどく混む眼科に通うのは、家族の負担も並大抵でない。治らないとなると、親の方が参ってしまうこともあるだろう。大抵の親は
 手術をすれば、普通の子どもと同じように見えるようになる
と信じているからだ。
その頃から近視も乱視もひどかったわたしは、ずっと眼科に通い続けた。毎年眼鏡の度が上がり、新しい眼鏡に慣れるまでに1カ月は吐き気や頭痛と闘い、成長期を過ごした。年に一度、数年間、札幌から大阪の湖崎克先生のところまで通ったこともあった。
小学校から弱視学級に籍があったらしいが、実際に顔を出すようになるのは、義務教育が終わって、弱視学級の対象でなくなってからだった。その頃、お世話になった長崎峻治先生は、先年亡くなられた。まだ普及してなかった拡大コピーをして貰うために、札幌市立日章中学校にあった弱視学級に時々行って、高校の字の小さなプリントを拡大して、見やすくした。
弱視学級にいた連中(リストは小学校の頃からちょっとずつ変わるけど、市の弱視検診などで顔見知りだったりする)も、高校に入るとだんだん消息がわからなくなった。治らないからだ。

治らず、悪くなることはあっても、良くなることがない場合、医療行為を中断するのも一つの選択かも知れない。だが、弱視の場合は、メンテナンスを続けないと確実に見えなくなっていく。視覚は脳の多くの部分を使っているそうだが、見ることを諦めると、見える範囲は狭まっていく。数年間、まともな眼科がなくて、ちゃんとした治療が受けられなくなったとき、本当にほとんど見えなくなったことがある。心理的な負担だけでも、弱視の場合は、簡単に「見える範囲」が狭まり「目が使える時間」が短くなる。京都市の左京区役所で暴言を吐かれたとき、一週間、目が見えなくなった。(大学に通ってる頃は、年に一回、左京区役所でのこの苦行が待っていた。一度暴言を吐かれた後は、その記憶が甦り、窓口に行くだけで、身体が震えてしまうのだ。なるべく、誰かに付き添って貰うようにしていたが、左京区に住んでいる頃は、本当に苦痛だった。札幌市の中央区役所もひどかった。そんなこんなで、役所嫌いになったのだが、西京区役所は大変親切だったので、この症状は収まった。奈良市役所は、一部を除いて、大変親切である。)

今でも眼科には定期的に通っている。半年に一度は眼底をチェックして貰い、コンタクトレンズと眼鏡で視力を補っている。視力が悪くなるのを少しでも抑え、なにか問題が起きたら、すぐに対処する。
こんな風に前向きに考えられるようになるまでに、かなり時間が掛かった。

生命に直接関わらない、弱視であっても、「治らない」ことに患者は葛藤する。
このあたりを「納得」するのには、時間が掛かるが、受け入れられない人もいるだろう。わたしの手術の失敗も、もし、それが最近のことだったら、わたしの両親はどうしただろうか、と思う。

叔母は血液内科に通っている。叔母の病気は「治らない」けれども「治療を続けなければならない」病気だ。
叔母には、何度も
 薬をのんだから、すぐ治る病気じゃなく、一生薬を飲み続けるのが必要
と説明した。放っておくと、薬をのまなくなってしまうからだ。叔母の飲んでいる薬には、勝手にやめるとダメなものが含まれている。
最近はようやく理解してくれるようになったけれども、こういう
 治療しても、めざましい効果が実感できず、薬の副作用が辛い
場合は、患者がくじけてしまうことがある。叔母は主治医が変わる(札幌医大に通ってるので、転勤などで主治医がよく変わる)のが不安で、変わる度に治療方針が違うのに戸惑っている。このあたりは、もう少し説明とか
申し送りがあるといいのかも知れないと患者の側は思うけれども、大学病院だと、説明してくれる先生の方が少ないかも知れないな。

医者の友達と話していると
 日本語の使い方が違う
ことに気づく。
 生命に関する見方が違う
と言い換えてもいいだろう。生活で一般に使われる日本語と、医者が医療の場で使う日本語には、意味内容に隔たりがあるのだ。このあたりの
 翻訳
が進まないと、医療訴訟は増え続けるだろうし、訴訟の多さに嫌気が差して、その診療科から去る医師は増えるだろう。

もう一つ。
 死を隠蔽し続ける風潮
にも、問題がある。要するに
 死はひとごと
になってしまっているのだ。そのためか、自分や自分の周りにいざ死が姿を現すと、受け止められない人がいる。

人間の話ではなく、馬の話だが、
 98年秋の天皇賞でサイレンススズカが脚を骨折した
時、明らかにこれから薬殺されるのに
 元気な姿を見せて欲しい
という方向で、競馬中継が続いていた。こうした
 間違った方向への誘導(エセヒューマニズムとも言える)
が続く限り、死に直面できない人間は減らないだろう。
生は必ず死によって終わる。その事実はいかんともしがたいのだが、なぜか軽視されている。
本来的には、そのために宗教があるのだけれども。

|

« ばらまき? 軍事転用可能な技術に熨斗つけて流出させるのに荷担? 「アジアの留学生へ月額20-30万円の無償奨学金」 (その2) 文科省と経産省に電話してみました 黒幕は江沢民と親しい二階俊博経産省という噂 | トップページ | ランダエタ対亀田戦 10月に再戦 »

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 完全に治療できない、ということ:

« ばらまき? 軍事転用可能な技術に熨斗つけて流出させるのに荷担? 「アジアの留学生へ月額20-30万円の無償奨学金」 (その2) 文科省と経産省に電話してみました 黒幕は江沢民と親しい二階俊博経産省という噂 | トップページ | ランダエタ対亀田戦 10月に再戦 »