京大国文 vs 東大国文@万葉文化館 8/27
奈良女子大COEの主催する若手研究者支援プログラムの第二日目は、万葉文化館で開かれた。
講義形式なのだが、昨日のもっとも注目されたテーマは
「古事記の表現をめぐって」山口佳紀(聖心女子大学)
コメント 内田賢徳(京都大学)・神野志隆光(東京大学)・奥村悦三(奈良女子大学)・ 寺川眞知夫(同志社女子大学/万葉古代学研究所長)
総合司会 坂本信幸(奈良女子大学)
だった。
国文出身じゃないわたしは、この先生方の顔ぶれを見て、なかなか楽しかったのである。国文業界にいる方はどう思ってるか存じませんが。
山口先生のこの講義には、 同じ東大国文出身の長年の同志である神野志先生が、異例の長いコメント(突っ込みなのか援護射撃なのか謎)を寄せた。てか、長すぎ。
短い残り時間を、他の先生方が分け合った。
まず、土橋寛批判から始まったこの講義への控えめな感想を、土橋門下の寺川先生が述べた。
次いで、京大国文出身の内田・奥村両先生が
東大国文的アプローチに対する、京大国文的婉曲話法を用いての鋭い突っ込み
を入れていた。いや〜、久々に
京大の伝統芸
を拝見いたしました。ちょっと聞いただけでは
何を批判してるか分からない
のだけど、ポイントを押さえて聞くと
本質的な問題を露わにするコメント
なのだった。まあ、こういう滋味掬すべきコメントは、
京都の婉曲話法
の文化的風土に醸成された話法で語られているので、その基本的話法が共有されてないと理解できない。果たして、山口・神野志両先生にコメントが届いたかどうか。
京大文学部のあの独特の話法は、授業を受けたことがないと、わからないかもしれないなあ。エレガントかつ鋭く、洗練された批評言語であると思う。わたしはよう使いません。
早い話、山口先生のアプローチは
あまりにもテクスト原理主義
で、 山口・神野志両先生が共同で校注をつけている
小学館 新編日本古典文学全集 古事記
の底本である真福寺本が、巻末の解説で
応安四年(1371)〜五年(1372)にかけて書写
『古事記』撰述から660年後の写本
と認めているにもかかわらず
『古事記』の散文部分と歌の相互関係を現存テクスト内で考えて、それを『古事記』の構造や散文の性質として敷衍する
って話なので、文献学的に
そんなコラプションだらけのテクストで、太安万侶の『古事記』の話にしちゃっていいの
という疑問がある。てか、そこをすっとばして構造論・構成論に行ってるから、もの凄く違和感がある。国文のテクストクリティックって、こんな感じなんですか?
結局のところ
まず推論ありき
で、肝心のテクストの性質については放置してあるから、あまりわたしは納得しないで聞いていた。テクストは文字を読むもので、構成を作業仮説としてつくってから読むものじゃないんだけど、一応『古事記』の校訂は済んだから、構成論に踏み込んでもいい、って話なのかな。
ま、あくまで門外漢の感想なので、国文学的には間違ってるかも知れないけど。
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