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2006-11-23

恭仁宮の回廊跡出土 現説は11/25 10:30-

奈良時代というと、平城京に710-784年の間、ずっと都があったような印象があるが、実際には、聖武天皇の時代に
 聖武彷徨
と呼ばれる、廃都された時期がある。遷都先の一つが
 恭仁京
だ。『続日本紀』天平十五(743)年十二月辛卯(26日)条には、


壞平城大極殿并歩廊、遷造於恭仁宮。四年、於茲其功纔畢矣。用度所費不可勝計。至是更造紫香樂宮。仍停恭仁宮造作焉。

と、平城宮の大極殿と歩廊を壊して、恭仁宮に移築した旨が書いてあるが、その
 平城宮から移築した歩廊の跡
が発見された。
京都新聞より。


恭仁宮の回廊跡出土
加茂 大極殿院の東西規模140メートルか

恭仁宮大極殿の周りを巡った回廊にかかわる穴状の遺構が見つかった発掘現場(京都府加茂町例幣)
http://www.kyoto-np.co.jp/static/2006/11/22/P2006112200183.jpg

 京都府内で最古の都・恭仁(くに)宮(加茂町例幣)跡を発掘調査している府教委は22日、宮の中核だった大極殿の周りを巡った回廊にまつわる遺構が見つかった、と発表した。回廊で囲まれた大極殿院の東西規模も初めて約140メートルと推定され、府教委は「恭仁宮の実像に迫る成果が得られた」とする。

 恭仁宮は740年に聖武天皇が平城京から遷都し、足かけ5年、都が置かれた。府教委は1973年から継続調査中だ。

 今回調査では大極殿跡の西側約80メートルの地点で、南北方向に直径1・2−1・5メートルの円形の穴状遺構が4カ所見つかった。穴は15・5尺(約4・6メートル)の等間隔で並び、回廊の屋根を支えた柱の礎石を据える基礎工事の跡とみられるという。

 797年に成立した「続日本紀」には、恭仁宮の大極殿や回廊は平城京から移築したとの記述がある。平城京の大極殿院回廊の柱間は遺構と同じ15・5尺という。

 平城京の回廊は中心に土塀がある複廊形式の築地回廊で、今回の遺構に照らすと、恭仁宮の大極殿の中軸から西側の回廊の中心までは71メートルになり、不明だった大極殿院の規模は東西142メートルの可能性が出てきた。

 調査した府教委の奈良康正技師(38)は「大極殿院回廊に直接かかわる遺構は初めて。ようやく手がかりが見つかった。今後は回廊構造や南北規模を調査したい」と話す。

 現地説明会は25日午前10時半、恭仁小北側の大極殿跡に集合。現地事務所Tel:0774(76)4204。

移築したモノだから、柱の間隔は平城宮と同じじゃないとね。
恭仁宮周辺の発掘はずっと続いてるけど、
 今回ようやく当たり
って感じかな。なんで宮跡みたいな
 わかりやすいはずの遺跡がわかりにくくなってるか
というと、平城京に再び都が遷った後
 山城国分寺に改造
されたからだ。大極殿→金堂で、七重の塔を建てたりしている。

で、11/17には、
 史跡名を山城国分寺跡から恭仁宮跡に変更
する答申が出ている。


国史跡・山城国分寺跡が恭仁宮跡に名称変更 文化審が文科相に答申

 京都府加茂町の国史跡・山城国分寺跡が恭仁宮跡に名称変更され、宮の範囲も追加指定される。17日、文化審議会が文部科学相に答申した。かつては場所も分からない幻の都だった「恭仁宮」の名が表看板になった。周囲に万葉以来の景観を残す歴史遺産。「遺跡整備に弾みがつく」と、関係者は喜んでいる。

 恭仁宮は740年、聖武天皇により平城京から遷都され、5年間都となり、難波宮への遷都に伴い廃絶。その後山城国分寺に造り替えられた。

 巨大な礎石など遺構が良好に残り、1957年大極殿跡などが山城国分寺跡として国の史跡に指定、その後の発掘調査で宮の範囲が確定した。

 東西約560メートル、南北約750メートルで、平城宮の約3分の1。高さ5メートルの土塀で囲まれていたらしい。儀式を行う朝堂院が中央にあり、北側に天皇が住まう内裏が東西2つあったとみられる。

 加茂町が2003年度から3年がかりで保存管理計画を策定、地権者の同意が得られた約10万平方メートルを追加指定した。

 ■恭仁宮跡調査専門委員長の中尾芳治・元帝塚山学院大教授(考古学)の話

 恭仁宮跡全域の指定に向けた第一段階として歓迎したい。名称変更で、山城国分寺跡を含む全体の保存・整備が可能になった。来春、合併も予定されているが、椿井大塚山古墳や高麗寺跡など南山城の歴史遺産を総合的に保存整備し、魅力ある町づくりに生かしてほしい。

というわけで、史跡名も変更されるし、恭仁宮の大極殿の回廊も見つかったし、ま、これから
 幻の恭仁京の実態
は、更に明らかになるだろう。毎年、南山城地域の現説には行ってるけど、このあたり、上記記事にもあるように、加茂町に恭仁京はあるは、すぐ北の山城町には椿井大塚山古墳はあるは、高麗寺はあるは、もひとつ北の井手町に行くと、橘諸兄が氏寺として建立した井手寺はあるは、と古代史で重要な遺跡がてんこ盛りにあるのだけど、小さい自治体が掘ったり、管理している。合併によって、文化財に掛けられる予算規模が増えるといいのだけどね。古代には、こんな小さい行政区分とは関係ない、地域全体にわたる文化的な動きがあったわけだからなあ。

恭仁京は、最初に引用した『続日本紀』の記事によれば、巨費を投じたのにも関わらず、四年経っても完成しなかった都である。当初のプラン通りつくっていると
 左京側の中程に木津川(当時は泉川)が流れ、それをはさんで北側に恭仁宮がある
ようなので、
 洛陽タイプの宮都プラン
ってことになりますかね?
今回、回廊跡が見つかったところは
 例幣(れいへい)
という凄い地名なんだけど、海住山寺も同じ大字内にある。小字を見ていくと、海住山寺の塔頭に関わる地名もあるが
 殿野・池ノ内
など、恭仁宮内にあってもおかしくない地名もある。金属加工にまつわる地名も見えるが、時代的にはいつぐらいまで遡れるかな。
 
おまけ。
2005-02-05 椿井遺跡現地説明会@京都府山城町 京都府埋蔵文化財センター 2/5
http://d.hatena.ne.jp/iori3/20050205/p2
2004-02-01 橘諸兄創建?の井手寺跡出土
http://d.hatena.ne.jp/iori3/20040201#p1
2005-02-06 井手寺跡現地説明会 井手町教育委員会@2/6
http://d.hatena.ne.jp/iori3/20050206/p1

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