古典学の衰亡
昨日は京都に出かけ、人文研で雑誌をコピーさせていただく。武田先生、お忙しいところをありがとうございました。
その後は文学部図書館に行き、卒業生用カードを作る。名前は
文学部図書館
だが、電話すると
文閲です
という答えが返ってくる。哲閲・史閲と三つが合体した形だが、代表名は文閲だ。
すぐに書庫には入れます
というので、入ろうと思って、ふと見ると、日文研でお世話になった司書の方が文学部図書館に異動されていた。今年の4月からだとか。博論作成時には資料集めに尽力していただいたお一人である。
書庫に入って愕然とした。かつて
支哲文(戦後は中哲文。史部の書籍はB分類で以前は史閲に置かれていた。現在でも本棚の場所が違う)
と言い習わされて、旧文閲の3階、書庫の扉を入って右側の大量にあった中国古典の書籍が、同じように書庫の扉のすぐ後ろに並んでいるのだが、明らかに
最近、あまり図書を利用した形跡がない
のだ。つまり
棚が死んでいる状態
なのである。京大文学部図書館の書庫に入ったことのある人なら知っているが、京大の中哲文は
線装本が大量にある
のだ。世界で唯一と言っていい、
聴講生以上の身分があれば、書庫で明代以降の貴重本でない刊本は普通にコピー閲覧できる図書館
なのである。それが明らかに最近触られた形跡がないのである。
理由はいくつかある。
1. 中国・台湾・香港でテクストの電子化が進み、直接、書物を手に取らなくても、調べ物が出来るようになった
2. 古典学を志す学生が減った
などだ。一番大きな理由は1だろう。
池田秀三先生のところにお伺いしたら、
ぼくも最近はコンピュータの中のテクストを切り貼りしてるよ
と仰っていた。池田先生のような鴻儒がカットアンドペーストで十三経を利用されるのは、問題ないのだが、
きちんと句読を打てない、学部生・修士レベルの院生が、他人の作った電子化テクストで論文を書く
のは、
読解力がないまま、切り貼りするだけ
になるので、大いに問題がある。
要するに
読めないままに、テクストを貼り付けて、分かったつもりになる
わけで、これは
古典学の衰亡
以外の何者でもない。
池田先生は
最近、経学が残っているのは世界で京大だけだというお墨付きをもらった
と、冗談交じりに仰っていた。確かに、
漢代の礼制について議論する授業
を毎年開講して、学生が清代考証学と同じ手法でテクストを読むなんて悠長なことは、他大学では認められないだろう。今は
国際化
とか
いかにカネになるか
が、
文系の学問の価値
を定めている、悪しき時代である。
特効薬というのは、毒薬である。その症状が出ているときにしか使えない。
いま、文系に
カネになる、国際化する
という
特効薬的な役割を求める
のは、もともと、
養生術のように、穏やかな「効き目」
で命脈を保ってきた古典学に死をもたらすだけだろう。
古典学が失われるとき、それはたぶん遠くない。
古典学が失われるのは、人類の歴史上、初めてのことではないが、今回の衰亡は
次の復活はないかもしれない
という漠然とした不安を起こさせる。
池田先生は
修論までは手で書くようにせんと、あかんなあ
と仰っていた。わたしも同意見だ。ここまでテクストの電子化が進むと、先祖返りにはなるのだが、
手書き
にしないと、身体で覚えない。
わたしが学部にいたころは、電子化なんてまだまだ先のことで、泣きながら全文を手で打つのが普通だった。それでも
手で書いて覚えろ派
もいた。電子化を自分でする分には構わないが、他人の作ったテクストをそのまま持ってきて切り貼りするだけなら、全然勉強にはならない。そもそも
テクストの中身を理解
できないだろう。
電子化テクストを使うなら、ある程度読めるようになってからじゃないと逆効果だ。
確かに電子化テクストは便利だが、本来の目的である
テクストを読む行為
は、以前と同じように時間のかかる営みなのだ。
| 固定リンク
コメント
どこも似たようなものですなあ。
はー。
投稿: あかねだ | 2007-07-28 10:54