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2007-10-28

和菓子の老舗

以前にも書いたことだが、わたしの家は、戦前、札幌の中心部にあった菓子屋だった。そのため、一家の本籍地は中央区南一条西四丁目にある。店は、市電の西四丁目停留所の北側角にあった。
菓子屋をやめたのは
 戦中の砂糖の統制で菓子の要の砂糖が手に入らなくなったから
である。その後は菓子屋を再興しなかった。職人さんは応召していなくなり、材料も手に入らず、戦争が原因となって、店を閉めた菓子屋は、日本中にたくさんあるだろう。戦争が終わり、運良く、生きて帰って来た職人さんたちが、再び活躍するには、少し時間がかかった。砂糖が自由には手に入らなかったからである。

戦後のことだが、ビルに建て替えるので、札幌軟石でできた店の蔵は解体した。札幌軟石は、札幌郊外の石山から切り出した石で、建材に広く使われた。蔵は自分の生まれる前に壊されているのだが、何度も話を聞かされている内に、ほの暗い蔵の中が見えるような錯覚に陥った。
蔵の石は札幌の家の石垣になっている。庭には、蔵の扉の上に掲げられていた屋号を刻んだ石が置いてある。もう、その屋号を告げて、どの店だったか分かる人は希だ。蔵には、白い大きな青大将が棲んでいたと聞く。曾祖母が見たという。何か家に事があると、姿を現したそうだ。蛇には縁があり、太宰治の『斜陽』にも、人の死とともに庭にたくさんの蛇が姿を見せるシーンがあるけれども、同じような光景が、曾祖父が亡くなったときに、見られたと聞いている。ふと気がつくと、木の枝や庭の隅に、びっくりするくらい、蛇がぶら下がったり、とぐろを巻いたりしていたのだそうだ。
店のあった名残で、たくさんのお稲荷さんや恵比寿様、大黒様の像が神棚に上がっていた。お祭りしきれないので、ある時期に、ほとんど神社に返した。店のあった頃は、店内外の肝要な場所にお祭りされていた筈である。蔵には小豆や砂糖など製菓材料を積み上げてあったので、鼠が多く出ただろう。たくさんあった小さい恵比寿様や大黒様は、鼠避けにお祭りしていたものではないかと思う。
建て替える前の家の廊下には、もう使わなくなった菓子の木型が置いてあった。羽子板のような形をした木型は、「打ち物」と呼ばれる落雁などの型だ。菓子屋を営んでいる頃は、北海道神宮に落雁(ご紋菓)を納めていたので、大きな型がいくつも残っていた。その後、それらの木型がどうなったか知らない。

戦後、砂糖が手に入らない時期がしばらく続いた。砂糖の統制が全面撤廃されるのは昭和27(1952)年。甘味がなければ、菓子は作れない。サッカリンなどの人工甘味料で当座を凌いだ店もあれば、砂糖が入手できるまで店を閉めたところもあった。赤福が有名になったのは、砂糖が必要な量、手にはいるようになるまで店を閉めていた、という伝説があったからでもあった。それが、赤福の信用を支える一つの根拠にもなっていた。

赤福の問題が深刻なのは
 老舗で生菓子(朝生)を商っていたのに、その信用を汚した点
にある。生菓子には、お茶事に使われる上生と、もっと庶民的で、出来たその日限りに食べてしまわなければならない朝生がある。赤福は朝生の餡ころ餅だ。鮮度が命の朝生は、日持ちがしない。赤福は、あげる方ももらう方も、時間と戦いながら、急いで惜しむように食べる菓子だったのだ。今回の偽装が明らかになるまでは。

餡を炊き直す。
手でこねて菓子を作る。
そうした過程を子どもの頃から、イヤと言うほど見てきた祖母は、決して、上生を食べようとはしなかった。晩年、わたしが京都からお土産に持って帰ってきた京菓子は、口にしてくれたが。
祖母の食べる和菓子は、朝生か、桃山やどら焼きのように、一度火の入ったものばかりだった。
最中も
 この餡はずいぶん(煮)詰めてあるし、全然豆の風味がない。いつの餡だかわかったもんじゃないね
と、餡のよくないものは好まなかった。自分の家でも、最中の餡は
 餡の最終形態
だったからだろう。昔は、何度か煮返して、煮詰まってしまった餡は、水飴を加えて、最中の中に行くと聞いた。最中専業の店の品物はともかくとして、わたしがあまり最中を好まないのも、こうした祖母の話を聞いたからだ。
餡を炊く、ボートのオールのような、巨大なへらも家にはあった。餡を炊く銅の大きな鍋もあったはずだが、それは戦中の金属供出で、とっくに姿を消していた。

いまも残って暖簾を継いでいる和菓子の老舗は、戦中戦後の修羅場を生き延びてきている。
その間には、人には言えないようなことがあった店もあるだろう。
ただ、今の時代に、それは許されない。

菓子屋だった頃の歴史をちょっと計算してみた。
明治8年に札幌に入って、四丁目に店を構えるまでにはどのくらいかかったか知らないが、明治20-30年頃には、菓子屋になっていたように思う。それから昭和17年頃まで続いたのだとしたら、45-55年ほどの歴史のあった店が、砂糖の統制で敢えなく潰れたことになる。店を30年保たせるのも大変だが、戦争には叶わない。同じようにして、全国で、伝統のあった菓子屋がいくつも、砂糖の統制を契機に、永遠に姿を消していると思われる。戦争で消えた日本の味は、菓子に限らず、他にもあるだろう。食べ物商売は、平和であってこその商売である。
家の場合は、主人は菓子職人ではなかった。その後の子孫は、食品会社に勤めた者はいるが、正規の職人になって食べ物の店を構えた者は一人もいない。店を続けていたとすれば、今年で店を構えてから110-120年になっている勘定なのか。100年の伝統などと言われると、ひっくり返ってしまうから、商売に淡泊で、海外や全国に散らばっている子孫の一人としては、商売替えをしてくれたのは、むしろ有り難いかも知れない。
店を続けられるのも、愛してくださるお客様あってのことだ。味を守るのは、責任の重い、なかなかに大変な仕事なのである。

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コメント

>食べ物商売は、平和であってこその商売である。
池波正太郎のエッセイに「戦後、ようやく街に蕎麦屋が戻ってきたときに、ああこれで外食ができる、としみじみ思った」というような一節がありましたね。
一人で、金さえ払えば、好きなものが食える、ってのは、平和ならではだ。
ウチは飲み屋だったけれど、戦後に始めたちょっと大きな店が僕が高校生くらいのときに立ち行かなくなって、父が一人で居酒屋を始めました。
その店は2000年くらいまで続いたのだけれど、新しいお客さんはなかなか開拓できないし、店の主人が一番長生きしてしまって、馴染みのお客さんがだんだん減って行って、という。
商売を長く続けるのは本当に大変なことですね。

投稿: ttanabe | 2007-10-30 08:19

@niftyトップページ「旬の話題ブログ」コーナーにて、
本ページの記事を紹介させて頂きました。
紹介記事については、「旬の話題ブログ」バックナンバーで
半年間、ご覧いただけます。
しみじみと歴史を感じながら読み入っていました。
>店を続けられるのも、愛してくださるお客様あってのことだ。
お店も企業も、愛してくださるお客様あってのこと、心にしみました。今日も多くのお客様と幸せを分かち合う気持ちでお仕事、していきたいと思いました。
素敵な記事をありがとうございます!
今後も旬な話題の記事を楽しみにしておりますので、
引き続き@niftyをご愛顧の程、よろしくお願い致します。
ありがとうございました。

        @nifty「旬の話題ブログ」スタッフ

投稿: 「旬の話題ブログ」スタッフ | 2007-10-31 09:48

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