アワセそば@沖縄市高原
沖縄市高原にある
アワセそば
は、祖母の思い出と分かちがたく結びついてる。
1995年11月、沖縄国際大学で日本宗教学会が開かれた。大学院生だったわたしは、発表のために、関空から那覇へ飛んだ。その時、祖母は死の床にあった。
札幌には頻繁に電話を入れた。
一度顔を見せに戻ってこい
よほどのことがない限り、札幌に来いと言わない父がそう繰り返す。
わかった。学会が終わって、札幌まで乗り継ぎでも何でも戻れたら戻るから
と答え、飛行機を調べた。ちょうど
那覇→関空→羽田→札幌
と乗り継げば、その日の内に札幌に戻ることができることがわかった。幸いに空席もあった。
高校の先輩、小林幹穂さんが、ちょうどその頃、具志川の病院で働いていた。幹穂さんは、宗教精神医学の研究をしている。沖縄はフィールドの一つで、赴任してそれほど経ってない頃だった。学会の懇親会で、久しぶりに顔を合わせた。なんでも全国規模の学会が沖縄県で開かれるのは珍しいというので、当時の大田昌秀知事が中心となって、県を挙げて、盛大に歓迎することになったというのだ。そういえば、降り立った那覇空港には
歓迎 日本宗教学会
という垂れ幕が掛かっていた。県内の主だった機関に、学会プログラムが配られ、わたしの名前を見つけた幹穂さんが、わざわざ尋ねてくれたのだった。
どっか行きたいところ、見たい物とかあるか?
と聞かれたので、
ユタさんに会いたい
と答えた。沖縄には民間の巫覡である「ユタ」がいて、いわば宗教カウンセラーとして、沖縄の人達の心の支えになっている。幹穂さんは職業柄、ユタさんには知り合いがおり、そのお一人をわたしたちに紹介してくれた。その他にも、宗教学者の卵だったわたしたちのために、幹穂さんは、沖縄の民俗宗教に関係した場所あちこちに連れて行ってくれた。最初の沖縄訪問はディープなものになった。
札幌へ乗り継ぐ日、幹穂さんは、沖縄市高原のアワセそばに連れて行ってくれた。店頭では、大鍋でソーキを煮ているところだった。鍋の前で、ソーキを大きなヘラで鍋返ししているおばさんに尋ねた。
このソーキは保ちますか?北海道まで持って帰りたいんですが
おばさんは、そんなことを聞くのはあんたが初めてだ、というような顔をして
大丈夫。冷蔵庫へ入れなくても、全然問題ないから
と、プラスチックのパックにたっぷりとソーキを詰めてくれた。汁気はないので、持ち運びには、さほど苦労しないが、一応、袋に入れてくれた。
札幌への土産にアワセそばの乾麺とアワセそば自家製ソーキを持って、半日がかりで北へ飛んだ。
翌日、親戚にソーキとそばを配りながら、祖母の待つ病院に行き、しばらく傍についた。祖母は、眠っている時間が長くなっていたが、意識は澄明で、目が覚めると、しっかりと話をした。つい最近、手術したばかりで、ストーマやたくさんの管が布団の裾から出ていた。排出量をチェックしながら、時々目を覚ます、祖母と話をした。
祖母はそれから1週間後、88歳の生涯を閉じた。
今回は店には行けなかったが、牧志の市場で、アワセそばのソーキそばを買ってきた。
12年前、目の前で詰めてくれたソーキは、レトルト入りに変わっている。今日は葱ではなく水菜を入れてみた。生薑は紅紫蘇漬けのもの。横の瓶は辛みを添える、沖縄の唐辛子を泡盛に漬けたもの。アワセそばの店で知って以来、わが家ではコーレーグースー(高麗古酒 島とうがらしの泡盛漬け)を欠かしたことがない。
手術の後、しんどかったろうに、わたしを見て、喜んでくれた祖母の顔を思い出しながら、懐かしい味を口に運んだ。
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