史跡円覚寺跡@那覇
太平洋戦争で、激しい地上戦の戦地となった沖縄は、今なお戦火で失われたままの文化財が少なくない。琉球では風水思想によってさまざまなものが構築されていたのだが、艦砲射撃で地形が変わってしまって、元の風水の見立てと合わなくなっている所もかなりあるそうだ。山を削るほどの艦砲射撃を想像するだけでも、いかに、沖縄戦が苛酷なものであったかと茫然とする。ハワイにも射撃訓練で島の形が変わってしまったカホオラウェ島があるが、これは太平洋戦争が始まってから1991年までの間、米軍が演習地として使用していたためだ。それまでに50年程かかっているが、沖縄の場合は、短期間の米軍の攻撃で地形が変わったわけで、その凄まじさは想像を絶する。
現在、県立芸術大学の向かい側に残っているのが
円覚寺跡
だ。(画像はクリックすると拡大します)
第二尚氏の菩提寺として、鎌倉の円覚寺に倣い、15世紀末に建立された壮大な七堂伽藍は沖縄戦で焼失、石造の放生橋だけが残った。
旧境内に立てられている案内板。旧伽藍配置図もあり、往時の姿を伝える。
円覚寺跡
国指定史跡
昭和47年5月15日指定円覚寺は琉球における臨済宗の総本山で、山号を天徳山と称した。第二尚氏王統の菩提寺であり、琉球随一の寺院であった。
尚真王が父王尚円を祀るため、1492年から3年が仮で建立したと伝えられる。開山住持は京都南禅寺の芥隠禅師である。建築の手法は、鎌倉の円覚寺にならった禅宗七堂伽藍の形式を備えており、寺域は約3,560平米であった。伽藍は西面し、全面中央に総門を開き、その左右に掖門を備えていた。総門を入ると放生池があり、放生橋、山門、仏伝、龍淵殿が一線上に配置されていた。
昭和8年に円覚寺伽藍として国宝に指定され、総門前庭の円鑑池やハンタン山の緑に映えて荘厳な寺院であったが、去る大戦でほとんど破壊された。
現在の総門(県指定有形文化財)と左右の掖門は昭和43年に復元されたものである。放生橋(重要文化財)は昭和42年に修復された。橋の勾欄羽目の彫刻は精緻を極め、沖縄の石彫美術の最高傑作であるといわれている。
沖縄県教育委員会。
史跡指定の日付に注目して欲しい。
昭和47年5月15日
とは
アメリカから沖縄が日本に返還された当日
である。
現在、円覚寺跡は発掘調査中で、旧境内に直接立ち入ることは出来ないが、
現場横に通路があり、放生池から山門の基壇にかけては、見ることが出来る。
写真右から、復元された総門、放生池と放生橋、山門の階段と基壇。
ただいま発掘中。
旧伽藍配置図から推察するに、旧掖門周辺の発掘調査か。
案内板横にある、非沖縄県人にはわかりにくい注意書き。
「文化財保護の為火の使用はご遠慮下さい。
尚ご使用になった線香等はお持ち帰り下さい。
沖縄県教育委員会」
これが「線香等」のために設けられているらしい小さな香炉とおぼしき設備。
境内の掃除をしているおばさんに尋ねたのだが、「よくわからない」という返事だった。
失われた聖地であっても、今なお尊崇を得ているのだろうか。
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