高学歴ワーキングプア救済策? 「社会人を教壇に」
博士号取得後の人生は、なかなか悲惨になりつつある。
これには
博士号なしの教授・準教授がフタをしている人事構成
にも原因がある。
おおよそ、共通一次第一世代(79年入学)前後は
修士で助手採用、その後転出して他大学へ就職
というルートが、国立大学での出世ルートだった。ところが
他大学へ転出した後に、博士論文を執筆してない教授・準教授が存在
する訳である。
現在、それがたとえテンポラリーな職であっても、大学で職にありつくには、たいていは
博士号取得
が最低条件である。
こうなると
修士就職をした教授・準教授が、博士の学位を持ってない場合、どこにも動けない
のだ。従って
大学教員の流動性を著しく妨げているのは「学位なし」の上位職
ということになる。
大綱化されて、大学院が重点化される前は、こうではなかった。
博士の学位がないからよその大学へ動けない教員
は、以前であれば、出身研究室の口添えなどで、
適当な年数勤め上げ、相応の業績を上げれば、次の職場にステップアップ
できた。ところが、今や
就職の前提となる博士の学位がない
から、ずっと同じ職位に止まっていることになる。本人もモチベーションが上がらないと思うんだけど、40代ともなると、大学内では、結構重要な仕事を任されているから、改めて学位論文を書く時間が取れない。最近の大学教員は、教育と研究以外に
学内外でこなさなくてはならない業務(会議はもちろん、オープンキャンパス、数度の入試業務、高校回り、留学生獲得のための海外業務など)
というのが大量にあるから(国立大学だと、事務はまともに仕事をしない大学すらある)、本来ならセクレタリーがこなすべきような
誰でも出来る仕事
を
学識経験者が多くの時間を割いてこなす
という、嘆かわしい事態を招いている。かくして
学位としては修士のまま、業務に時間を取られ、研究を大成できない大学教員
というのが、年齢を重ねていくことになる。
弁護するわけではないけれども、人文系に関しては
博士論文の順番待ち
という悪しき習慣があった。
先輩が学位を取るまでは、後輩は待たなければならない
という順位があったのだ。高齢(40代後半から停年前まで)の大学教員で学位を持たない場合は、こうした
学位論文を出さない研究室の悪弊
によって、順位待ちをしている間に、
研究者は最低でも学位を持つこと
という形に変わり、猫も杓子も学位を取るようになった時流に乗り遅れてしまった場合がある。実際問題として
学位論文待ち時代の学位論文の質と最近の課程博士の学位論文の質
は、同列に論じられないくらい違う。つまりは、論文の求める質が違うので、そうそう書き飛ばせない。まあ、論文を書かない習慣の研究室で育つと、
字を書くことは恥をかくことである(by 京大国文の大先生)
ということになっちゃって、これはこれで問題がある。(とはいえ、以前なら一本にもならない論文が、堂堂と一本として通用するだけでなく、COE報告書の、審査を経てない、論文の体裁を成してない文章ですら、立派な業績としてカウントされる現状は、単なる人文系学問の崩壊だと思うんだけど、誰も問題にしないんだもん。文科省から国民の税金をもらって出している報告書に、教養の学生レポートよりひどいのが載っているのは凄い)
40代ともなると
自分のついたボスは退官(もしくは停年退職)
してしまうから、論文が出しにくくなってくる。その間に、後輩というよりも教え子に近い年齢の若手が学位論文を出してしまうから、いよいよ論文を出せなくなってしまうのである。こうして
修士就職組の「旧世代」 vs . 課程博士必須の「新世代」
が、大学教員に混在していることになる。混在していても、
一度職に就いた以上、よほどの事がない限り、クビにならないのが大学教員
だから、修士就職組は、動きはしないが、クビにもならない。ところが、
少子化で大学教員は採用を控える傾向
だから、フタをしている修士就職組の下で、新たなポストは減る一方で、
学位を持っていても、就職できない「高学歴ワーキングプア」が大量にいる
ことになるのだ。
人文系に関して言えば
教養科目のアウトソーシング化
が進んでいて、教授が停年で辞めても
次のポストがあるとは限らない
状態で、就職状況は悪化する一方である。非常勤講師の口も、なかなか見つからない。
で、こうした
学位を出したのはいいけど、大量の「経済的な負け組」を産出した
事態に対して、一つの解決かも知れないのが
教員免許を持たない社会人を教員に採用する
という、教育再生会議の三次報告案だ。
日経より。
教員採用、社会人2割に・教育再生会議、バウチャーは試験実施教育再生会議(野依良治座長)がまとめた三次報告の最終案が11日、明らかになった。教育の幅を広げるため、教員免許を持たない社会人の参入を推進。2012年までに教員採用数の2割以上を目指すことを掲げた。大学の全授業の3割を英語で実施することも明記。賛否両論あった「教育バウチャー(利用券)」制度は全国一律の実施は見送り、国が公立学校を対象にモデル事業を実施することで決着した。下旬に福田康夫首相に提出する。
社会人の積極登用は、ビジネスマンや研究者など各界の専門家を教壇に立たせることで教育水準の向上に寄与することを狙った。現在も都道府県の教育委員会が「特別免許状」を発行して採用できるが、慎重な教委が多い。特別免許状なしでも優秀な人材であれば非常勤講師などで登用するよう提言した。(07:04)
しかし、博士課程まで行って、
大学以外の先生になる
っていうのは、よほどの信念があったのでない限り、
学位の無駄遣い
だと思いますがね。
就職先が他にないから、D持ちの小学校教員
というのがもし実現するようだったら、日本の
高学歴推進政策は大失敗
だと言っていいだろう。そもそも
初等教育の目指すものと、高等教育が施すものとは、違ったはず
なのだから。教育学が専門というのならまだしも、それ以外で
teacherになるために学位を取った
なんて、物笑いの種にしかならない。恐らく
それぞれの教育課程の教員の職能
について、まともに議論したことがないから
先生ならどこでも先生だ
と思いこんでいるのが、教育再生会議じゃないのか。大学でも、中高併設だったりすると、事務のヒトが平気、というか知らないだけだと思うんだが、大学の先生宛に
〜T(Tは"teacher"の略)
とか書いてよこすところがある。中高ならそれでいいかもしれないが、大学でこんな表記が内部的にでもまかり通っているようなところだと、教育に対する経営側の熱意というのがどの程度のものか、透けて見えてしまう。
学位持ちの研究者が、就職に関して辛酸をなめる一方で
学士卒の官僚が大学教員になる動きもある
わけで、
大学教員内の学歴不均衡
は、もの凄いことになっている。更に実学系の
幼児保育とか医療・看護とか
が学部や学科にあると
高卒の教授
というのも当然ながら存在するのだ。国立ではまさかそんなことはないと思うけど、私大だと実在する。
しかし、これって、日本の従来の価値観を根底から覆す話でね。
優秀な人材が努力すればある程度は報われる
という学力信仰が、完全に崩壊している訳。子どもに向かって
うんと勉強しろ
とは言いにくいよね。昔は、勉強が出来る子どもは
医者か弁護士か官僚か
なんて、親が尻を叩いていたけど、いまやどれも
幼い頃からの努力に見合うだけの「報酬」が見込めない職
になりつつある。研究者は
貧乏学者
という言葉が昔からあったから、それに戻っただけだけどな。
医師の友人に
わたしのやってる研究は、儲かるどころか、身を削ってどんどん貧乏になりながらやってる
と言ったら、目を剥いていたけど、人文系というのは、基本的にそういう学問だった筈だ。一時期、大学バブルともいうべき状況があって、一瞬だけ就職が良くなったけれども、今はまたそういう
やればやるほど貧乏になるのが人文系
というのに戻っている。師匠は、博士課程に入るときに
大金を稼いでみないか
と励まして下さったのだが、どうも、研究対象が
逐貧賦を書いたといわれる男
だったせいか、飢えないまでも、本を買うための金策には追われる生活は変わらない。学会参加にかかった費用の計算を間違えて、明日までは手持ち2500円で暮らさないといけないしな。(単に算数の間違いだから、自分がアホなんだけど)
さて、論文書きに戻るか。
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