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2008-01-08

のだめカンタービレ in ヨーロッパ Special Lesson2@1/5 21:03-23:30 フジ

のだめカンタービレ in ヨーロッパの第二夜"Special Lesson2"は
 のだめの成長とちょっとした成功の物語
である。原作では、
 のだめがピアニストとして自立できるかどうか
が現在の問題になってるんだけど、ドラマはその
 のだめの課題
をちょっと先取りしている。

冒頭は前夜の続きで
 砂漠のプロメテウス作戦
が実行される。千秋がミルヒーと同じ事務所を契約させられるわけなのだが、
 くすぐり地獄
で、サインをさせられてしまう千秋がおかしい。

千秋のプラティニ国際指揮コンクール終了直後に、コンセルヴァトワールの新学期が始まった。ドラマでは、慌てて校舎に駆け込むのだめと、オーボエの黒木くんを画面上ですれ違わせている。
原作でもやった
 アナリーゼ
だが、今回は尺を取って、しっかり描写した。日本の音大の教育課程がどうなっているかは知らないけれども、
 ブラームスの交響曲第3番第3楽章
という、普通の音大生なら常識だと思われる楽曲のアナリーゼに、語学の壁を含めて、まったく歯が立たないのだめの挫折が描かれる。そもそも、日本編でも、
 勉強嫌い
というキャラクター付だったのだめが、異文化の中で、
 音楽を言語化する
という、もっとも苦手な作業を強いられるシーンが、
 コンセルヴァトワールでの最初の授業シーン
なのだ。このシーンだけで
 このSpecial Lesson2のテーマは「異文化にぶち当たった極東の日本人が、いかに西洋音楽を言語化するか」だ
というのが見えてくる。確かに日本には
 西洋から移入された音楽
が溢れており、学校音楽の基礎の一つにはなっているのだが、それは
 楽譜の移入
なのであり、その楽譜が示すところの
 精神性や文化的背景
は、無視されている。
 楽譜通り弾け
というのが、のだめの日本での課題だったのだが、実際にフランスに来てみると、今度は
 楽譜を読んで弾け
と要求水準が上がるのだ。
 耳コピーの天才のだめ
にとって
 楽譜から、その奥にある作曲家の言葉をくみ取る作業
は、もっとも苦手な作業だが、のだめが今後ピアニストとして自立するためには、
 楽譜を読み解く力
が欠かせないのだ。
 自由に楽しくピアノを弾いて何が悪いんですか
という、かつてののだめの言葉が、フランス留学した自分の音楽への態度に帰ってくるのが、このSpecial Lesson2で常にのだめに突きつけられる問題の根幹である。その辺りは、原作では分かりにくいのだが、衛藤凜の脚本は、
 マジノ先生の厳しい指導

 オクレール先生のレッスン
のシーンで、肉付けし、映像化した。この脚本の展開は素晴らしい。ドラマで
 音楽の言語化
をどう表現するか興味があったのだが、あえて時系列を組み替え、セリフや場面を組み合わせることで、わかりやすいものとなった。
のだめが、マジノ先生のレッスンで吐く弱音は、どの分野の勉強であっても、スランプに陥った学生や院生が口にする類のモノで、指導する教員の怒りを誘う言葉だ。目の前の課題を後回しにして、
 なぜできないか
を延々と言い訳されるのは、課題の解決にはなんの助けにならないだけでなく、
 本人のやる気
を疑わせるものだ。教育とは、教師が学生を型にはめるものではない。あくまでも、自分より大きな可能性を秘めているかもしれない若い人々の力を伸ばし、持てる才能を発揮できるようなサポートを行うのが、高等教育での教員の仕事である。その意味で、衛藤凜の脚本は
 高等教育の本来の姿
をきっちりと描いていた。大学院で
 わたしバカだから
とか抜かす院生がいると、
 だったら辞めれば
と怒鳴りたくなる教員は、世界中にたくさんいるだろうな。
衛藤凜の脚本のえらいところは
 言い過ぎました
と、マジノ先生に言わせ、のだめへの救いを残している点だ。実際問題として、
 ヨーロッパに音楽の勉強のために留学する日本人
のために、ここまで配慮してくれるかどうかはわからない。(大学院で「わたしバカだから」を連発する院生は、放置されるのがオチだ)毎年、たくさんの日本人がヨーロッパやアメリカなどに、音楽の勉強のために旅立っていくが、
 〜に留学
という経歴が、果たしてその演奏家や指揮者、作曲家の
 身になっているのか
は、誰にも分からないのだ。残酷な話だが
 のだめの挫折と同じ経過
をたどって、挫折を乗り越えないまま、日本に戻ってくる人の方が多いのではないか。そうした
 音楽留学の暗黒面
を、あっさりとではあるが衛藤凜の脚本はきちんと描いている。
挫折を演じる上野樹里は実に良かった。あの泣きの演技に、
 自分の挫折
をなぞった視聴者は多いのではないか。

主人公が挫折したままだと、テレビドラマとしては成立しないので、Special Lesson2では、のだめの挫折が丹念に描かれた後に
 挫折の克服とステップアップ
という、救いのフェイズが続く。オクレール先生が、のだめをロワールのブノワ氏のリサイタルに推薦するのは、原作だと期末試験の結果なのだが、時系列がシャッフルされているために、その辺りのオクレール先生の教育的配慮はわからなくなっている。そのために
 のだめの小さな成功
であるはずの
 リサイタルに推薦される
というプロットが、
 スランプの学生に課される課題
に化けてしまっていて、リサイタルの意味づけが変わってしまっている。まあ、
 ノエルの喧嘩と仲直り→年末ののだめのリサイタル→年明けの千秋のヨーロッパデビュー
というある意味むちゃくちゃな時系列にエピソードを詰め込んであるので、しょうがないといえばしょうがないのだが。このあたりの
 のだめの成功の描き方の弱さ
が、
 続編があるのか?
と視聴者に思わせる原因ともなっている。千秋はともかく、いまのままではまだまだ
 のだめの成功
は、成長過程の一エピソードに過ぎないからだ。

他方、
 モーツァルトとラヴェルがリサイタルの課題曲
と位置づけしたことにより、
 のだめの西洋音楽への第一段階の覚醒
が描きやすくなったことは確かだ。曲をアナリーゼし、楽譜を隅々まで読み、演奏に反映させるという
 演奏家として必要なルーチンワークを身につける過程
が、モーツァルトのソナタの練習を通して、しっかりと描かれている。この辺りは
 原作を知らなくても、わかりやすい筋運び
だと思った。原作では
 苦手なバッハを弾けるようになる
カギが教会でバッハに触れるシーンだったのだが、今回のドラマでは
 アヴェ・ヴェルム・コルプス
を耳にすることで、課題曲のモーツァルトが弾けるように改変されていた。そのために、ロワールのリサイタルで、
 教会の響き
という言葉が、変な文脈でつかわれることにはなるのだが。宗教音楽の背後にある精神性を語るために、バッハではなく、モーツァルトの宗教音楽を使うのは若干違うような気がするのだが、2時間半の尺という
 オトナの事情
があるから、その点はアヴェ・ヴェルム・コルプスを出すから勘弁してよ、ってことなんだろう。
しかし、きらきら星変奏曲の
 のだめの音(というか音源)
は、全然
 丸い音の粒
じゃなかったよね。CGで誤魔化してたけど。

ドラマの終わりの方で、
 松田幸久
が登場していることになってるんだけど、顔は出てこないから、誰だか分からない。これは
 続編への布石か?
と思ったのだが、どうなるだろうか。

原作が今年中に完結し、今回ののだめカンタービレ in ヨーロッパに対する、フジテレビへの反響が大きければ、また、続編もアリかもしれない。時期的には、今年秋くらいがいいんだけど、連載はまだ続いているので、どうなりますかね。

挫折を乗り越えるためには、
 自らが扉を開かなければならない
という、永遠の真理が、Special Lesson2では一貫して描かれた。扉を開けるカギとなるのは、
 自分の才能
である。
 自らを信じ、正しい方向に努力を向ける
のが、才能ある若い人が、前進するための唯一の道であることを、今回のドラマは再認識させた。(残念ながら才能が限られている場合は、努力が結果に見合うわけではない)
そういう意味では、実に教育的なドラマだった。

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