一次資料の魅力を引き出す難しさ 深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記』文春新書
一次資料に基づいて書かれた歴史書は、これまでにも数多ある。これまでわたしが読んだものは、読んだ後に
一次資料そのものを読みたい
と痛切な飢餓感を感じるものが多かった。
深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』はどうか。
残念ながら、一次資料の持つ魅力を存分に引き出せたと言えない。
原因はいくつかある。
一つは、
時代背景を説明するために、一次資料の紹介部分を削った
ことだ。井関隆子の日記が書かれた天保11(1840)年1月1日から天保15年10月11日までの5年間が激動の時代であったことを説明するのに、かなりの紙幅を割いている。
二つは
一次資料の現代語訳がぞんざい
という点だ。井関隆子の日記は文字も文章も流麗である。その
一次資料のよさ
を現代語訳が生かし切っていない。
文は人なり
という。井関隆子の魅力を伝えるためには、もっと現代語訳の部分に心を砕くべきであろう。
これは編集者の問題でもあるのだが、
日記の体裁を破らず、時代背景を入れ込んで編集する
という手もあったはずだ。日記本文の分量が少なく、時代の流れが読めない編集になっており、短い本文に同じ資料が重複したりする不備のために、非常に浅薄な印象を受けるのは、『井関隆子日記』の資料としての価値を考えるならば、実に惜しい。
新書が矢継ぎ早に出ていて、編集者の力量が追いついてないというのを痛感させる出来である。
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