« 産科崩壊 2割が「産科医を辞めたい」産科崩壊地域の滋賀 | トップページ | ACUVUE OASYS乱視用 »

2008-02-11

ソウルの南大門(崇礼門)炎上→日本は「1500年後の恩返し」が可能か

瓦の崩壊する音が痛々しい、動画つきニュース。
中央日報より。


“国宝1号”崇礼門5時間で全焼・崩壊

大韓民国の国宝第1号の崇礼門(スンレムン)(南大門)が火災により崩壊した。

崇礼門は朝鮮時代である1398年に創建された。ソウルにある木造建築物の中で最古だ。

10日午後8時40分ごろ、崇礼門で放火とみられる火災が発生した。首都のど真ん中で起きたこの火災は11日夜遅くまで続いた。初期火災鎮圧に失敗したためだ。消防当局と文化財庁の安易な対応で、国宝1号が消えてしまったのだ。

一時火は消し止められたように見えた。しかし11日0時になるとさらに激しく炎上、一歩遅れて消防当局は屋根をはずして放水しようとしたが、炎が崇礼門全体を覆うと断念した。

出動した消防車50台余りと消防署員150人がはしごやホースなどを利用して水による鎮火作業を試みたが、火災発生4時間後に崩壊が始まった。

11日0時40分、樓閣2階と屋根が崩れ落ちた。時間が経過し、骨組みだけ残して形がわからなくなるほど崩壊が進んだ。消防関係者は「指針で文化財庁と協議の下、鎮火作業を行うことになっている。これにより文化財庁と協議を経た後で、ようやく屋根を取り除けることになったため、火を消し止められなかった」と話した。

個人タクシー運転手イ・サングォンさん(44)は「午後8時40分ごろ短髪にミリタリージャンパーと黒の登山用ズボンをはいた50代ほどの男が紙袋を持って崇礼門のそばの階段を登っていた」と話した。イさんは「1~2分後、崇礼門左側の1階樓閣と2階樓閣の間から赤い花火が上がった」とし「崇礼門に上がった男は火花が起こると階段を下り、南山の方に消えた」と付け加えた。警察は目撃者の陳述から放火である可能性が高いものとみて捜査を進めている。

◇崇礼門(南大門)=1962年12月、国宝1号に指定された国内を代表する文化財だ。漢陽都城の8門のうち最も重要な正門であり、現存する国内城門建物としても最も規模が大きい。現在、ソウルに残っている木造建物のうちで最も古いものだ。朝鮮王朝が漢陽に遷都後、1395年(太祖4年)に建築を始め、1398年に完工された。2005年5月、崇礼門周辺に広場が造成され、2006年3月、虹霓門が一般に開放された。

焼失前

崩壊、全焼した惨状

初期消火の段階で破壊消火が認められず、火が大きく広がった。
出火から1時間あまりの段階での報道。
朝鮮日報より。


2008/02/10 22:41:16 韓国国宝第1号・崇礼門で出火

まだ崩落に至らない段階の南大門

 10日午後8時50分頃、南大門の名で親しまれている韓国国宝第1号、崇礼門(ソウル市中区)から出火した。

 午後10時現在消防車約40台と消防官約80名が消火作業を行っている。

貴重な文化財が目の前で崩れ落ちていく様は衝撃的だった。
こうした木組の複雑な木造建築は、見た目以上にたくさんの木材を使用している。一般家屋だったら、消火が終わったと思われる状態でも、奥に火種が残っていれば、やがて火の手が上がる。一度、内部の木組に火がついてしまうと、水が届かないので手が付けられない。今の時期、ソウルは乾燥しているだろうから、燃料が豊富にあるところで火が燃えているのと変わらなくなる。こうなってしまうと、もう破壊消火もできなくなるだろう。文化財保護という名目で、韓国の文化財庁は、スプリンクラーの設置を認めていなかった。


南大門火災:「国宝第1号」崩壊、放火の可能性も(下)
(略)

◆スプリンクラーもなし

 火災が発生した崇礼門内部には、スプリンクラーなど初期消火装置が全くなかった。文化財庁関係者は「文化財には“内部施設保存のため消防設備を設置しなければならない”という規定がなく、現在関連規定を作成しているところだった」と説明する。
(以下略)

2006年には、南大門は100年振りに開門した。


2006/03/03 19:50:13100年ぶりに開門した崇礼門

崇礼門開放式の様子

ソウル市中区は3日午前、国宝第1号の「崇礼門(南大門)開放式」を行い、正祖大王華城回京、御駕行列、崇礼門生活史再現など、さまざまな行事を行った(写真=聯合ニュース)。

この年には南大門の調査が行われ、図面が作られているという。その図面を元に、韓国政府は復元を決めた模様だ。復元には2年以上はかかると見られる。
放火と失火の両面で捜査 復元には2年以上か 南大門 2008年02月11日11時28分

ところで、今回の
 南大門炎上
で、日本ができることがあるとすれば、多くの木造建築物を国宝・重文として指定している
 日本の文化財保存・管理技術
が役に立つのではないか。
まず、文化財保護のための法整備。
昭和24(1949)年1月26日、金堂壁画の模写のために用意された電気座布団から出火し、法隆寺金堂が焼損した。毎年、1月26日の
 文化財防火デー
には、法隆寺金堂の焼けた壁画や木材を収めている収蔵庫で法要が営まれ、法隆寺を始め全国の文化財で防火訓練が行われている。そして、この火災が契機となって、文化財保護のための法律や条令が作られた。
韓国では、まだ法整備が行き届いていない。韓国の木造文化財保護は、残念ながら立ち後れているという。南大門だけでなく、多くの木造建築が火災に遭えば焼失を免れない、危機的な状況に晒されているという。
朝鮮日報より。


2008/02/11 07:30:44 国宝級の木造文化財13カ所、火災に無防備

国宝級の木造文化財は事実上、火災に対してほぼ無防備だったといっても過言ではない。国会文化観光委員会は国政監査のたびにこの点を繰り返し指摘してきたが、結果はさほど改善されていなかった。

 ヨルリン・ウリ党の禹相虎(ウ・サンホ)議員は2年前、「寺などの国宝級木造文化財に対する消防対策現況」と題する報告書をまとめている。これによると、国宝指定されている全羅南道順天市の松広寺国師殿および霊巌郡の道岬寺解脱門などが1度の火災で全焼してしまう恐れがあるという。

 また、国宝級の木造文化財13カ所のうち、火災発生時に、消防車が5分以内に到着できる所はわずか2カ所にすぎず、残りは30分以上かかるほか、消防ヘリコプターが5分以内に到着できる所も慶尚南道梁山市にある通度寺の1カ所だけで、残りの建築物は火災の危険にさらされていた。

 こうした点を理由に、国宝級木造文化財の近くに消防署を設置したり、消防ヘリコプターが5分以内で向かえるように対策を講じるほか、文化財の特徴を考慮した「文化財消防法」の制定などが急がれる、と指摘されてきた。

次に技術支援。南大門の再建には、防火設備を持ち、まさかの出火に対応できる環境作りも必要だ。こうした面では、法隆寺金堂という犠牲を払って、以後文化財保護のノウハウを積み重ねてきた日本の技術が参考になるのではないか。
木造での再建には、宮大工の知恵も必要だろう。現在、韓国にどのくらい日本の宮大工に相当するような伝統木造建築の専門技術者がいるのか分からないが、もし、日本の宮大工の技術が助けとなることがあれば、
 大陸・朝鮮半島から木造建築技術を移入した日本の1500年後の恩返し
ができるかもしれない。

もし
 日韓文化交流
というのなら、南大門炎上への文化財保護の観点からの支援が、日本がいま出来る、最良のものではないだろうか。

続き。
南大門復元に関する中央日報の記事。


<南大門火災>崇礼門の復元は可能なのか

実測図面は残っているが原形の回復は事実上困難

11日0時40分、燃えた崇礼門の瓦が“どどっ”という音とともに崩れ落ちた。

火災が起きてから3時間40分後の出来事だった。炎に包まれた‘国宝第1号’の姿に文化財関係者はもちろん、韓国中の人々が驚きで我を忘れた。

今回の火災で崇礼門の大々的な復元工事は避けられなくなった。崇礼門は太祖4年(1395年)に着工し、3年後に完工した。以後、世宗(セジョン)と成宗(ソンジョン、朝鮮第9代王)時に補修工事が行われたが、建築当時の原形はそのまま保存された。

このような背景から、崇礼門の復元を懸念する声も高くなっている。カン・テヒョン国立中央博物館保存科学室長は「文化財は一度損傷すると原状への復帰が事実上困難だ。特に崇礼門は火災に脆弱な木造建築物でより深刻だ」と述べ「復元にも相当な期間を要するものと見られる。結果的に文化財管理がずさんだった。一般に開放したのは良かったが、もう少しセキュリティと管理を徹底すべきだった」と指摘した。

火災現場を見守っていたファン・ピョンウ文化連帯文化遺産委員長は「2階の楼閣の瓦とその下の塗り土の間からずっと煙が出ていた。初期消火に失敗したようだ。はじめからはしご車を動員すべきだった」とし「今の状況では全面的な解体と補修は避けられない」と話した。

崇礼門は1960年代初めに大々的な解体補修工事をしたことがある。その当時、最高の技師と呼ばれたチョ・ウォンジェ氏が復元工事の総監督を務めた。チョ氏は現在進行中の景福宮(キョンボックン)復元事業の総監督である申鷹秀(シン・ウンス)氏の師匠でもある。以後、崇礼門で大きな工事は行われなかった。一部瓦の張り替えなど小さな補修作業があっただけだ。

崇礼門の昔の面影をまた元に戻すのは事実上不可能だ。代わりに崇礼門を復元するための資料は十分に保存されていることが分かった。文化財庁建築文化財課の関係者は「崇礼門に関する精密実測図面がある。模様画の配色や建物に関する部材別の実測図面もある。資料が揃っているので技術的な次元での復元作業には困難はないとみられる」と話した。

一方、世界文化遺産への登録推進事業のためフランスのパリに滞在していた兪弘濬(ユ・ホンジュン)文化財庁長官は「崇礼門火災」の一報を聞いて、日程を変更し、11日午前に急きょ帰国する予定だ。

中央日報 Joins.com
2008.02.11 10:33:26

韓国の復元工事が求める水準がわからないから、何とも言えないな。
しかし、2006年の図面って外からの実測図面だけなら、
 1962年の解体修理時の図面
が必要だと思うんだけど、それは保存されているのだろうか。なければ、もっと以前の図面を探してこなければならないだろう。
木造で作り直すなら、木の組み方に配慮しなくてはいけないが、韓国は大きな材が取れるような巨木を自前で用意できているのだろうか。
薬師寺の再建事業では、国内産の木がなくて、台湾から資材を求めた。伊勢神宮は式年遷宮のために、造林して木を準備している。いきなり建設すると言っても、木は生ものだから、乾燥させる時間が必要だ。以前、札幌の自宅を改築する時、すなわち一民家を建てるときだって、山で木を3年くらいかけて乾燥させて使ったのだが、歴史的建造物の再建となると、木の扱いは時間がかかるのではないのか。

残った部材をできるだけ使う再建工事って、日本は結構得意。
身近なところでは、春日大社の造替がそうで、
 使える部材は継いで使う伝統
がある。
ただ、南大門というと韓国国民にとっては
 民族の誇りの象徴
だろうから、日本の文化財保存・管理技術で支援すると言っても
 日本
という言葉だけで拒否反応があるかも知れないのが、ちょっと不安。
南大門は、日韓併合期に、城郭の部分を撤去された過去がある。
朝鮮日報より。


2006/11/02 18:53:55「100年ぶりに崇礼門の城壁を復元」

復元する部分

 国宝第1号の崇礼門(南大門)の城壁が、およそ100年ぶりに本来の姿を取り戻す。

 ソウル市中区は、崇礼門に連結していた朝鮮時代の城郭を2008年までに左右10メートルずつ復元することにした。1907年に日帝が取り壊して以来、100年ぶりだ。当時日帝は、道路開設を理由に崇礼門の左右の城郭を撤去し、城門だけを残した。

 中区は、現在三角の形態でしか残っていない城郭を当初の四角形に復元する。また、崇礼門の下の地盤も堀り、現在より1.6メートル低め、原型そのままの姿に戻すことにした。

 2002年の精密安全診断と昨年の地盤調査の結果、門の蝶番石(門を閉じる石の構造物)、土台石(一番下の基礎石)、薄石(平たく薄い石)などの遺構(昔の建築の残存物)が現在の地表より1.6メートル下で発見されたためだ。これを復元すれば、崇礼門の高さは現在の17.6メートルから19.2メートルに高まる。文化財委員会の考証・審議などを経て、来年下半期に着工する予定。

 1398年(朝鮮太祖7年)に建立された崇礼門は、現在ソウルに残る木造建築物の中で最も古く、1962年に国宝第1号に指定された。崇礼門の中央通路である虹霓門は、今年3月に開放された。

|

« 産科崩壊 2割が「産科医を辞めたい」産科崩壊地域の滋賀 | トップページ | ACUVUE OASYS乱視用 »

コメント

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=56888&servcode=100§code=100

『中央日報』のコラムですが・・・・


> 建築的な美が、それほど優れているとは思えない朝鮮王朝の一つの建築物を、5000年にわたる韓民族文化の最高の象徴に決めた日本帝国主義の本音がうかがえる。

だそうです。

たとえいかなる理由があろうとも、曲がりなりにも自国の歴史的建造物をここまで言うか?というのが正直な気持ちです。「坊主憎けりゃ袈裟まで・・」という感じなんでしょうか?

投稿: 匿名希望 | 2008-02-12 08:02

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ソウルの南大門(崇礼門)炎上→日本は「1500年後の恩返し」が可能か:

« 産科崩壊 2割が「産科医を辞めたい」産科崩壊地域の滋賀 | トップページ | ACUVUE OASYS乱視用 »