小村雪岱『日本橋檜物町』平凡社ライブラリー
版心が印刷されているこの書物は、元本は木版摺だったらしい。印刷に移すときに、平凡社がその体裁を残した。罫線にゆったりと活字が組んである。
挿絵と装幀で名を成し、舞台美術でも活躍した小村雪岱の絵を初めて見たのはいつだったろうか。わたしが記憶しているのは、たぶん、泉鏡花の書物の挿絵と装幀でだと思う。平凡社ライブラリーに収められた本書では、口絵に16ページを割き、小村雪岱の生涯の仕事が、一目で分かる構成になっている。
題名になった日本橋檜物町は、雪岱が暮らした町の名である。
泉鏡花の幻想の世界が、小村雪岱という才能を得て、書物の形に美しく花開いたのは、まさに奇蹟であったと言ってもいいだろう。口絵の8ページ目には、小村雪岱が手がけた泉鏡花の作品の単行本が、並んでいる。見返し、表紙の今はやや色褪せた様子からでも、当時の美しさが忍ばれる。実に手の込んだ、趣向を凝らした造本で、こんな書物を作る技術は、もはや日本からは滅びた。丸背の本をきちんと作れる安い工賃の職人がいないからだ。
鏡花も雪岱も生粋の江戸っ子ではないのだが、他国の人故に、却って、厳しく選び取られた江戸趣味の最上の部分が、そこに残っている。江戸好みの着物の粹は、はんなりとした色気を好む京好みの着物とは、まったく別物だ。関西の着物は「いつも春みたい」などと称されるが、お江戸の水に磨かれた粋は、背筋をぴんと伸ばして、きりっと着こなさないと、「なんて野暮ったい」と不平が聞こえそうな、切れ味の鋭い、凜とした勁さがある。
小村雪岱は、舞台美術家として、装置だけではなく、衣裳のデザインも手がけた総合舞台芸術家である。今では細分化されている舞台美術の職掌の、ほとんどの部分のデザインを考案し、指示を出した。その舞台装置も、芝居小屋によって舞台の大きさが違うのに、脚本のト書きには、四軒、軒を連ねてなんて無茶なことが書いてあるのを、その通りに再現するのである。現代ほど情報化されてない戦前の舞台で、作者のわがままを出来るだけ通して、その通りに建て込んで舞台を作る苦労を、小村雪岱は本書の中で語っているが、舞台は生き物、雪岱苦心の舞台装置も、資料としてはあまり残っていないのではないか。そして、その舞台を実際に見た人たちも、ほとんど死んでしまい、雪岱の舞台美術は、本書の随筆の中にしか残っていないものが多いのではないか。
近代日本の舞台美術家としては、伊藤熹朔がその最初の専門家だが、小村雪岱はそれに続く。本書に収められた戸板康二の文章によれば、小村雪岱が初めて舞台装置の図面を書いたのが大正十三年、それから徐々に舞台美術の仕事を担当するようになった。大正十五年新橋演舞場での「安土の春」の装置が評判となり、歌舞伎座の舞台装置を任されるようになる。戸板康二は小村雪岱の舞台装置の三絶(ベストスリー)を「春日局」「桐一葉」「一本刀土俵入り」としている。実際に舞台を見た戸板康二の文章からしか、その小村雪岱の舞台装置を想像するしかない。舞台装置は、役者が映えてこそのもので、演技を際だたせるための「装置」なのだから、残された図面だけでは、その装置の効果は決して分からないのだ。
小村雪岱の描く女達は、ちょっと春信めいた嫋々とした風情の女達だが、やはり近代の水を潜っている。それでも、まだ、着物が身近にあった時代の女達なのだ。
明治の末に生まれた祖母から、いろんな昔話を聞かされたわたしは、見たことはないが明治の中頃の様子を思い浮かべることができた。小村雪岱は祖母より20年年長で、本人も見てはいないのだが、幕末の江戸周辺のことを聞かされて育っただろう。小村雪岱にとって、絵や舞台の上に描く江戸は、わたしにとっての明治の如く、まだしも、地続きの近しい過去であっただろう。それは、当時の役者も、舞台を見る人たちも同様だったと思う。そうしたある意味幸福な「時代劇」「歌舞伎」の時代は、もはや残っていない。六代目歌右衛門の死とともに、往時の美しい舞台も見物も、記憶の彼方に消えていった。六代目歌右衛門は、大正6年生まれだが、『歌右衛門の六十年―ひとつの昭和歌舞伎史』で伝え聞いた舞台の話を生き生きと語っている。
昭和十五年、小村雪岱は浴室で倒れ、帰らぬ人となった。その後、東京は空襲で焼け果て、関東大震災にも耐えて残っていた江戸の名残は息絶えた。
その意味で、小村雪岱は、江戸を昭和に伝える幸せな人生を全うできたと思う。
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