訓読と文言
わたしは中文の出身なので、文言はまず中国語で音読してから、訓読して訳す、という手順を踏むのが、ゼミの担当者のやり方だった。中国語で読むのは
文言も中国語
という前提があるからだ。だから、中国音を調べるために必死になって『新華字典』を引き、『新華字典』がカバーしてない冷僻字は、『辞源』で探した。
学部のレベルでは、詩を訓読するときに「句またがり」が処理できれば、だいたい卒業だった。
もっとも、日本人は、
中国語文言を日本語のシンタックスに載せる=訓読
という特殊技術を長いこと保持していた。「いた」と過去形で書くのは、最近は、漢文は中高でもあまり大事にされず、入試で漢文を課す大学は減り、漢文教育自体がどこへ行くのか分からない状況になっているからだ。
京大では、今でも中哲や東洋史のゼミで発表するときは、訓読が主流じゃないのかな。中国からの留学生は、中国語で読んでから日本語訳かも知れないけど。
文言については、
訓読は必要派
と、
中国語なんだから中国語で読め、訓読はどうでもいい派
が常に対峙する。一種の宗教戦争である。
わたしは、後から中文に入った「非プロパー」なので、
両方出来た方がいい
と思っている。
ただ、
訓読は悪、漢文教育は不要
みたいな考え方もあるようだ。基本的に、わたしのいた頃の中文では、訓読は出来た方がいいが、もの凄く厳密に出来なくても構わないという感じだった。訓読の実力でいうなら、中哲の方が上だろう。東洋史は、
できるだけ短く訓読する流儀
と聞いている。具体的にいうと、上下点はなるべく打たない、という感じだとか。
中哲だと、
全然現代中国語は出来ない
という先生方が、きちんと文言を解釈される。もちろん
訓読という手段を使って
だ。
現代中国語が出来れば文言が読める
というのは、実は幻想で、もし、それが本当なら、中国人はみんな文言を間違わずにすらすら読めることになる。今の中国人が文言を読む実力を知っていれば、それは大嘘だとすぐ分かる。というか、普通に読めないヒトの方が多い。
知り合いの中国有名大学の先生は、政治的理由で受け入れざるを得なかった社会的地位のある博士課程の院生が、全くと言っていいほど文言が読めないのに、論文を書かせて学位を出さなくてはならないらしく、グチをこぼしていた。古典を勉強しているはずの中国人にだって、そんなことがあるわけだ。
中国古典の現代中国語訳がたくさん出される理由はそこにある。
文言を読める人間の数自体が減っている。このまま行くと、世界的に「古典芸能に近い特殊能力」になるのではないかと、いつも思っている。
現代中国語からでも、日本流の「訓読」からでも、アプローチの方法はどうであれ、
読めるか読めないか
が問題だ。「漢文は害悪」派の主張では
訓読なんぞするから、いつまで経っても中国語文言が読めないのだ
と言ったりするのだけど、そうではなく
間違った訓読をしている=読めてない
というだけの話。訓読は解釈を含む作業だから
ちゃんと読める=正しく訓読できている
ということだ。
以前は、
現代中国語が出来れば、文言は読みやすくなる
と思っていたけど、それは最低限の漢文訓読の力があっての話だった、と気がついた。
日本人が漢文ゼロから、現代中国語経由で文言が読めるようになるかというと、かなり大変。
ちなみに国文では、漢文には書き下しをつけないと話にならない。訓読が出来なければ意味がないわけで、現在「漢文」を支えているのは、実は
国文
なのだ、と聞いた。確かに、中国学では、白文に現代語訳を添えるというやり方も許されるが、国文だったら、ダメだもんな。
わたしが扱う文言は、オーソドックスなものよりも、破格のものの方が多い。好き嫌いの話をすれば、魏晋南北朝時代以降の特殊な文体で、白話(口語体)が混じる文章を訓読だけで処理するのには抵抗がある。そういう、「エレガントではない中国語文言」を扱うときは、白文+現代語訳で処理することにしている。
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コメント
>日本人が漢文ゼロから、現代中国語経由で文言が読めるようになるかというと、かなり大変。
いあ現代日本語を喋っている私も、古典の日本語なんざちーとも読めませんから。orz
たぶんそれと同じことなのでしょう。>現代中国語が出来れば文言が読めるというのは、実は幻想
そう考えると、訓読っつーのは実に凄い技術だと。
投稿: BUNTEN | 2008-10-12 07:15