いろんな角度でつっこみどころ満載の扶余出土「百済の618年出挙」木簡
新聞発表の考古学情報というのは、肝心な部分がオミットされていたりしていて、判りにくいのだが、この木簡の紀年が「百済の618年に当たる」というのが本当なら、
いろんな角度でつっこみどころ満載
だ。
618年。
中国では、義寧二年五月戊午、隋恭帝の禅譲により、唐建国。
日本は推古二十六年。
朝鮮半島関係では、『日本書紀』巻二十二にこんな記述がある。
秋八月癸酉朔、高麗遣使貢方物。因以言、隋煬帝興卅萬衆攻我。返之爲我所破。故貢獻俘虜貞公、普通二人、及鼓吹弩抛石之類十物并土物駱駝一疋。
推古二十二年に犬上君御田鍬らが派遣された遣隋使の話をすれば、帰国した翌二十三年(615)ににこんな記事。
秋九月犬上君御田鍬、矢田部造至自大唐。百濟使則從犬上君而來朝。
『日本書紀』では遣隋使が行った先は
大唐
と書くお約束。で、帰ってきたとき、百済使と一緒だった。
以上のような史書の記述がある、という上で、下の記事を読むと、いろいろと考えなくてはいけないことがあることが出てくる。
11/25付朝日新聞より。
律令制は百済から学ぶ? 韓国で類似制度示す木簡出土2008年11月25日3時2分
古代の日本が中国をモデルに律令制度を整備する際に、朝鮮の百済(くだら)(4世紀半ば〜660年)が窓口の役割を果たした可能性を示す木簡が韓国で発見された。奈良〜平安時代の律令国家を支えた財政制度「出挙(すいこ)」と同様の仕組みが百済に存在し、記録の方法も日本と同じであることが分かった。
百済の都だった扶余で、今年4月に木簡6点が発見された。周辺には役所が並んでいたと推定され、木簡の1点に税の収納を担当した役所の「外椋部」の名があった。木簡は長さ約30センチで「貸食記」と表題があり、618年のもの。日本は飛鳥時代で聖徳太子の時代に当たる。国立歴史民俗博物館の平川南館長(日本古代史)、早稲田大の李成市教授(朝鮮古代史)らが解読し、百済が国庫に持つ稲の種もみを運用した「出挙」の記録と判断した。
出挙とは、作付けの季節や食料が不足する端境期に農民に種もみを貸し、収穫の秋に回収する制度で、中国では私的な貸借だった。中国をモデルに8世紀に整備されたとされる日本の律令制度では公的制度としても運用され、租庸調と並ぶ財源となった。私的な出挙の利子は上限が10割だが、公出挙では5割。地方の役所の運営、港や駅の維持、寺社の造営など、広範な行政や社会活動が公出挙の利子に依存し、貸し付けは次第に強制化したとされる。
見つかった木簡から、百済にも公的出挙が存在し、利子が日本と同じ5割だったことも分かった。出挙を記録した木簡は、日本では7世紀末以降のものが出土しており、書式もよく似ている。(渡辺延志)
◇
〈鈴木靖民国学院大教授(日本古代史)の話〉 古代の国づくりの知識は、遣隋使や遣唐使を通じて中国からもたらされたというイメージが強いが、中国とは国の規模も違い、そのまま導入するのは難しかったはずだ。百済はいち早く中国の制度や文化を取り入れ、当時の日本とも親しい関係にあった。今回見つかった木簡は、国の根幹にかかわる財政制度が百済から導入されたことを物語る。
この木簡の話で半年はいろいろ悩めそう。
こと「百済」が絡んでるとなると、上記記事のような、簡単な結論にはならないように思いますが。
新聞発表では、釈読の全文は上がっておらず、写真を見るだけでも、かなりの字数がある「百済618年出挙木簡」の全体像が分からない。
しかし、よりによって618年の木簡とはね。
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