情報の可視化幻想 一番大事な物は見えないかも知れない
古典文献学などという
長期衰退分野
に関わっていると、
なんでも見えるところにある、見えるところにあるものは信頼できる
という考え方はヘンだな、と感じる。
たとえば、いくらデジタルアーカイブがたくさん出来ているにしても、まだまだすべてを網羅できてはいない。木簡や竹簡、文書など手で書かれた文字資料は
釈読
というプロセスが必要になるが、それは個々に任された作業で、
他人の作った釈読は、現物か写真を見て確認する
のが、ベストだ。それが出来ない場合に初めて、釈読の典故を明かした上で利用する。
ところが
可視化の作業
では、この
デジタル化された画像
ではなく
最後に得られた釈読だけ
を無批判にコピペすることが結構まかり通ったりする。
逆に言えば、
コピペできない資料はオミットされる
ということが出てくるのだ。
以前、CMの歴史を研究しているヒトと話をしてもの凄く違和感があったのは
まだ、CMの草創期を知っている人間が生きているのに、その本人達に全く話を聞かず、単に「同時代の雑誌資料など、文字化された資料に依拠」
していたからだった。
実際に携わった人間に話を聞くより、CM昔話の方が「文字化されている分、信頼できる」
と思っていたのだろうか。それとも
インタビューは別人にやってもらって「文字化されたものだけおいしく頂く」
ということだったのだろうか。
そろそろ、テレビの草創期に仕事してた人たちはお亡くなりになるか、病気でインタビューが取れなくなるんだけどな。
自分で文字起こしをする、という作業を抜きにして
コピペできる資料だけに依拠する
のであれば、
情報の可視化とは「実は見えない壁の中の騒動」
ということになるだろう。喩えて言うなら
シナプスを切りまくって、脳味噌を自ら萎縮させている
ってことになる。
会員制BBSのログのように
誰も保存せず、いつか消えてしまう記録
は、電子界の藻屑なのかも知れないが、かなり貴重な情報を含んでいる。これは
広く可視化されてない、デジタル情報
である。デジタル化された情報でも、すべてが世界に開かれているわけではないのだ。
googleなど検索ソフトは偉大だが、こぼれ落ちている中に、大事な物があったりする。
本当に大事な物は見えないかも知れない、という恐れを常に懐きつつ、資料に当たるよう、自分も含めて気をつけないとね。
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コメント
見えないというのも恐いですが、見えているけど真偽がわからない…というのも
インターネットの中では恐ろしいですね。
嘘もつき通せば真実 ではありませんけれども
誤った情報などが更新されることの無いWebサイトや、
コピペで延々と残り続ける与太話が
正しい情報と等価値で流通してしまいます。
#単に、コピペを読むだけで得られるような知識はアテにならないというだけのことかもしれませんが。
投稿: choir | 2009-02-06 17:45