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2009-03-12

井波律子教授・合庭 惇教授退任記念講演会@3/11 日文研

小雨とまではいかない、霧雨が時々舞う昼下がり、日文研で
 井波律子教授・合庭 惇教授退任記念講演会
があった。
司会は鈴木貞美先生。鈴木先生の「送る」講演会での司会には定評がある。しみじみとした暖かみ溢れる司会が、わたしは好きだ。

合庭教授は
 「ハイデガーとマクルーハン:技術とメディアへの問い」
という題目で、PowerPointを使っての発表だったのだが、ここが日文研のシステムの弱いところで、時々、画面が落ちてしまう。
この
 ハイデガー
が、最後に梅原猛先生を「召喚」するトリガーになる。

井波先生は、今年で最後かと思うと感慨深すぎる。
 「中国の五大小説」
で、現在上巻が出ている岩波新書『中国の五大小説』のダイジェストといえばいいのか。こういうときでも井波先生は謙虚すぎて、
 受付で御著書を売る
などということをなさらない。岩波新書は値段が手頃だから、受付に置いてあれば、今日の受講者は喜んで買う人も少なくないだろうに。後から伺ったら、それをやるのは、個人ではちょっと大変だから止めた、とのお話だった。井波先生は秘書は置いてらっしゃらないからなあ。
 下が出ていたら、また別だったけど
とおっしゃっていたが、下はもうすぐ発売される。

井波先生が冒頭に自らおっしゃったように
 『西遊記』・『三国志演義』・『水滸伝』・『金瓶梅』・『紅楼夢』の5つの白話小説を60分で語る
というのは、少々難しすぎるのだが、ユーモラスな語り口で、聴衆から笑いを誘った。
先生ご本人は後から否定されていたけれども、わたしは井波先生の講演を拝聴していて、
 吉川幸次郎門下
ということをしみじみと感じた。井波先生は
 吉川幸次郎最後の弟子
と呼ばれる。これも有名な話だが、井波先生が3回生で中文に進学されたとき、教養で中国語を履修しておられなかった。中国語ゼロで、吉川先生の3回生向け授業である
 現代文講読
を受講された。その時、吉川先生の選択されたテクストは
 巴金の『家』か『夏』か
だった。巴金を中国語で読むのは、中国語中級以上であれば普通の話だけど、初級中国語も習得していない井波先生にも、中国語履修済みの学生と同じように、予習が求められたと聞いている。それと、一度でも巴金を読んだことがある中国語履修者なら知っているように、巴金の小説は、どれも、言葉はそう難しくはないが、やたらと長い。おまけに、そうでなくても、吉川先生の現代語講読の進み方は速い。ちょっと中国語ができると思っている学生でも予習が大変で、準備が間に合わず、不十分な発表に対し、吉川先生の雷が落ちるのは例年のことだったのだ。
その年の現代文講読の授業は、実に凄まじいものになったというのは、今に伝説となっている。そうした厳しい学部の2年の研鑽の成果が、井波先生の卒論
 「文心雕龍論(ぶんしんちょうりゅうろん)―その文学の根本的原理への道程」
である。(『中国的レトリックの伝統』所収)
卒論の評価が厳しいことで有名だった吉川幸次郎先生が、
 これは良く書けている
と珍しく優を付けた、とこれも伝説になっている。
『文心雕龍』は難しい書物である。六朝梁の劉勰[キョウ]の文芸理論書であり、いかに中国語の勉強が進もうと、読みがたい部分は残る。しかし、22歳の井波先生の筆は奔り、『文心雕龍』と四つに渡り合っている。処女作は、作家のすべてを表すというが、井波先生の卒論は、その後のご活躍を約束する素晴らしい文章である。

もう一つ、京大中文で当時助教授だった高橋和巳の教えを受けた、数少ない研究者のお一人が、井波先生だ。いま一人は小南一郎先生である。だから、井波先生も小南先生も、高橋和巳に言及されるときは
 高橋先生
とおっしゃる。

高橋和巳が筑摩書房と約束し、井波先生と小南先生と、お三人それぞれ分担して始めたのが
 『三国志』(正史)
の現代語訳だった。ところが途中で高橋和巳は亡くなってしまう。それまでに井波先生は担当された『蜀書』の原稿は完成されていたのだったが。
いま刊行されている、今鷹真先生と井波先生、小南先生共同訳のちくま学芸文庫版の現代語訳は、稿を改められたものと伺った。
念のために言っておくけれども
 手書きの時代の『蜀書』全訳の原稿
を、改めたということだ。今みたいにワープロで書いて、ちょいちょい直す、なんて簡単な話ではない。どれだけ労力がかかるかは、想像を絶する。筆圧の高い人なら、書痙になっても不思議はないくらいの量だ。

正史の『三国志』の翻訳を経た上で、井波先生個人全訳の
 『三国志演義』
がある。恐らく、正史と演義の双方を訳した日本人は他にはあまりいないのではないか。文言(中国語文語文)と白話では、同じ中国語といっても、かなり違う上に、『三国志演義』は古白話であり、文言に比べて、より成立した時代のエッセンスを深く吸収している言語で書かれているから、文言と対するのとは別なセンスが必要になる。
正史『三国志』のみならず、六朝期の手の込んだ美文を相手に、一歩も退かない研究を続けられてきた井波先生の学問があってこそ、古白話『三国志演義』の個人全訳が叶ったのである。

お二人の講演が終わったときに、ちょっとしたハプニングがあった。
最前列で、お二人の講演を熱心に聞いておられた梅原猛先生が、
 一言、送る言葉を
と、演壇に立たれたのである。恐らく
 合庭教授の「ハイデガー」論
が、梅原先生のアンテナを刺激したのではないかと思われる。普段、こうしたことはそうは起きない。
梅原流のレトリックで、二人の先生を称揚し、ねぎらわれた。時間が大丈夫かな、と若干ひやひやしたけれども、無事、予定した時間を少しだけ過ぎた辺りで話し終えられた。

その昔、中文研究室のロッカーをみんなで掃除したことがある。
このロッカーには、歴代の先生方の卒業論文が秘蔵されている。というか、すべての卒業生の卒論が入れられている筈なのである。そのことを知っているから、その後京大に赴任された先生の中には、ご自分の卒論をこっそり持ち帰られたりする先生もある。「あ、○○先生の論文がない!」というので、後輩どもはその事実を知るのである。その当時、学部生は、自分が卒論を書くときは、先生方が帰られた夕方5時以降に、あくまでもこっそりとなら、このロッカーを覗くことが出来ることになっていた。
さて、このロッカーには、なぜか
 複数の古い写真
も秘蔵されていた。たまたま、中に入っている何かを探す話になって、ついでに掃除をしたら、
 院生当時の井波先生の映った写真
も出てきた。
 京大東洋学のアイドル
と謳われた当時のものである。十代の少女と見紛う、野の花のように可憐で、こぼれるばかりの笑顔の写真が残っていた。

井波先生が学部から大学院の時代は、大学闘争と重なる。
 研究室なんて、ドアから入ったことがない。窓から入っていた。
と以前伺ったことがある。建て直す前の中文研究室には、廊下側に窓があり、そこが学生や院生の出入り口になっていたそうである。

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