森鷗外『澁江抽齋』の基礎資料佐藤家蔵の「澁江家資料」が杏雨書屋に寄贈される
武田製薬の大阪工場敷地内にある
杏雨書屋
は、医学史関連の資料を収蔵・出版する財団法人である。
このたび
森鷗外の史伝『澁江抽齋』の基礎資料となる「澁江家資料」の寄贈
を受けて、特別展示会(昨日終了)と研究講演会(昨日)が開かれた。
杏雨書屋特別展示会・研究講演会ご案内第52 回特別展示会および第23 回研究講演会を下記の要領にて開催いたしますので、ご来場賜りたくご案内申しあげます。森鷗外の小説でおなじみの渋江抽斎がテーマです。
第52 回 特別展示会
テーマ:「渋江抽斎資料展」
日 時:2009 年4 月20 日(月)~24 日(金) 10:00~16:00
25 日(土) 10:00~17:00
場 所:大阪市淀川区十三本町2-17-85
武田科学振興財団 杏雨書屋 2階展示室第23 回 研究講演会
日 時:2009 年4 月25 日(土) 13:00~15:00
場 所:大阪市北区芝田1-1-35
新阪急ホテル 2F 紫の間演題・講師
I「渋江抽斎と医学館」
二松学舎大学東アジア学術総合研究所
専任講師 町 泉寿郎 先生II「弘前藩江戸定府医官渋江抽斎とその系譜」
弘前大学医学部 名誉教授 松木 明知 先生
(以下略)
町泉寿郎氏の講演は、
寄贈された澁江家資料
に即したもので、
幕末に多紀家の私塾「躋寿館」から幕府の直轄となった「医学館」の実際
についての分析が面白かった。なかでも
孔子を祭る「釈奠」
を真似て
神農氏を祭る行事が行われていた
など、医学館の日常が伺える話が興味深かった。抽齋は「医学館講書一件記録」に様々な日常の行事などを事細かに記録しているのだが、町氏は
澁江抽齋は記憶力に優れていた
と指摘されていた。
恐らく、
映像記憶能力があった
のではないかと思う。映像記憶能力があれば、実は、後から詳細に記録を綴ることは、それほど困難ではない。
神農氏の祭儀の供え物などの図解が添えられていたり、宴席の献立を事細かに憶えているのも、そうした能力の助けあってではないか、と思った。
もっとも、宴席の献立について言えば、この時期のこうした祭儀の直会などの献立は、割合に決まり切った物なので、バリエーションが豊かになりすぎている現代のわたしたちから見ると献立の一々を憶えているのは驚異のように思えるが、それは食生活の基盤が違うのである。
また、
森鷗外が17歳の頃付いた漢学の師佐藤元萇は、澁江抽齋がコレラで急逝した後を襲って医学館の講師となった人物
という指摘で
『澁江抽齋』では、鷗外は「武鑑の蔵書印で初めて抽齋を知ったと言っているが、本当は、17歳で漢学を習ったときから、その名を耳にしていたのではないか」
ということだった。これは中井義幸『鴎外留学始末』でも指摘されている。
鷗外が史伝を書き始めるのは、大正天皇の大嘗祭で応詔詩を上った以降のことなのだが、確かに、
漢詩を再び作り始める
のが
澁江抽齋に筆を進める契機
になったのだとしたら、そのトリガーとして、漢学の師が媒介になったということはあり得るだろう。
松木明知氏は、父子二代にわたる『澁江抽齋』研究者でもあり、若い頃から今は亡くなられた澁江家関係者や森於菟などに直接会いに行っているそうで、ご自身が
鷗外史伝研究の一部
となっていると言っても過言ではない。
杏雨書屋の特別展示会図録は、今回も太っ腹で、カラー図版多数で大変有益。講演会の会場では、レジュメと一緒に配布された。
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