つるおかくん 統合教育という概念
小学1年の時の担任の先生は
酒井明先生
だった。わたしたちは、酒井明先生が担任を持った最後の学年である。
わたしの通った小学校では、組替えは6年の間に1度だけで、3年生から4年に上がるときにあった。1〜3年までは、同じ顔ぶれで過ごした。
今は
統合教育
ということをやかましく議論するが、その当時は分離教育をしようにも、札幌市にはそうしたクラスが少なかった。
クラスには、1人重い知的障碍の子がいた。つるおかくんといい、3学年くらい上のおにいちゃんが同じ学校に通っていた。
つるおかくんは、いつもニコニコしていて、機嫌良く学校に通っていた。今考えると奇蹟的な話なのだが、酒井先生の指導力の凄さがあったのだと思う。誰も、勉強が苦手だからと言って、つるおかくんをいじめるようなことはしなかった。
その代わり、つるおかくんがなにか一つできると、酒井先生はみんなの前で誉めた。
酒井先生は、その当時でも、かなり年齢が上の先生だったので、いろいろな
昔の教材
をもっていらした。子どもにとっては、珍しい、ステキなグッズだった。
クラスで何かがあり、誰かがすごくいいこと、すばらしいことをすると、酒井先生が、その子を黒板の前に呼び出して、昔の教材を一つ賞品として下さる、そういうことが年に何度かあった。
避難訓練で頑張ったとか、運動会で活躍したとか、何かその子どもの良いところを見つけて表彰する。子ども達には、誰かいいことをした人がいないか聞いて、推薦させたり、あるいは珍しい経験があるか尋ねる。珍しい経験のある子どもにも、何か下さったりした。
そうした機会には、つるおかくんの名前が呼ばれることが珍しくなかった。つるおかくんだけ必ずというわけでもないのだが、他の子を誉める時は、できるだけつるおかくんも誉めるようにされていたように憶えている。つるおかくんが誉められるからといって、クラスで
つるおかばっかり、依怙贔屓されてズルイ
という風には、子ども達が考えないような、そうした工夫をされていた。
ある日、つるおかくんが粗相をしてしまった。
小学1年生の粗相は、日常茶飯事なのだが、それでも、場合によってはいじめの対象になる。つるおかくんは、早退けし、つるおかくんの汚れた座布団を、酒井先生は、教室で一生懸命洗っていた。
それからしばらくつるおかくんは学校を休んだ。つるおかくんは、たぶん他にも身体に問題があったのだろうと思うのだが、学校をよく休んだ。
つるおかくんが学校に戻ってきたときに、つるおかくんを粗相を原因でいじめる子はいなかった。みんな、そのことを忘れたわけではないのだが、それを口にしてはいけない、という雰囲気があった。
ただ、その後、あまりつるおかくんは、学校に来なくなった。
2年生になって、担任の先生が変わると同時に、つるおかくんは特殊学級のある小学校に転校して行った。
おそらく、酒井先生は、つるおかくんを普通学級に通わせるように、心を砕いておられたのだろう。統合教育は、個人の指導力に頼るしかない時代だった。
酒井先生はこの後担任は持たず、しばらくしてから教頭先生となって、別な学校へ異動された。ほどなく校長先生になって、
子どもの前で長い話をして嫌われています
というようなことをおっしゃっていた。子どもが大好きな先生で、退職されてからは、教育委員会に関わるお仕事をされていたようだ。もう何年も前に亡くなった。
酒井先生は、
人間として恥ずかしいということはどういうことか
を、1年間徹底して教えて下さった。言い換えれば
人間の誇りとは何か
を、小学1年生に教えたのだ。これは難しいし、それ以後、そうした教育に出会うことは少なかった。
そのクラスには、今で言う多動傾向の子が1人、学習障害の子が2人くらいいて、それからはいろいろ大変なことが起きた。授業中に突然奇声を発したり、立ち上がってうろうろしたりする子が1人いると、これはなかなか指導が難しい。今だと普通クラスに入れるかどうかで、揉めるケースだったのではないかと思う。1クラスの人数も50人近くいたから、担任の佐藤玉枝先生は、途中で別な小学校が新設されて、1/4くらいの生徒が移っていくまでは、学級運営に苦労されていたのではないかと思う。
わたしも、表向き問題にはされなかったが、できたばかりの弱視学級の対象児童だった。年に一度、教育委員会からチェックが入り、視力検査を受けたり、視力が悪いことで学校生活に問題がないかなどの調査に答えたりした。後から聞いた話だが、市内で有名な弱視児童だったらしい。どうして有名だったかは聞き漏らしたが。
2年生になってからは、わたしは1つ下の弟の件で、よく弟の担任の先生に授業中に呼び出された。
これも今考えると、弟は多動傾向の子で、ともかく授業中じっとしていられないし、担任の先生の言うことを聞かない。で、何かあると1つ上のわたしが呼び出されて、黒板の前で、先生から弟のしでかしたことを聞かされ、代わりに謝るのである。弟は何故先生に怒られるのか、その当時はよく分かってなかったと思う。
わたしが毎日のように呼び出されても、うちの家族は誰も、先生の指導が変だとか、弟が「不当な差別を受けている」とか言わなかった。むしろ、そうした手のかかる子どもを見捨てずに指導して下さる先生に感謝していた。
担任の先生は、弟がする「集団生活には馴染まない行動」については、厳しく指導されたが、問題児である弟の持っている長所をできるだけ見いだして、その都度誉めて下さっていた。だから、弟は機嫌良く学校に通っていた。
弟の多動傾向は、学年が上がると落ち着き、そのことが原因で担任の先生に呼び出されることはなくなった。
わたしたちの頃の教育カリキュラムは、いまよりかなりびっちりしている。戦後の教育史上、もっとも
詰め込み教育がなされた世代
と言う風に聞いている。各クラスに多動傾向のある子どもや学習障害の子がいるけれども、学級運営をしながら、担任の先生方は、毎日のようにガリ版でプリントを作り、漢字の練習や九九を教えて下さった。今みたいにワープロで文書をつくって、コピーすればいいという時代ではない。ガリ版を切って、印刷し終えるまで、早くても2時間くらいかかるのではないか。プリントは、新しい単元に入れば必ず配られたし、学級通信もテストもお知らせも全部ガリ版刷りだった。
九九は、二の段から始まり、段が増える毎にマス目の増えるテストが毎日配られた。最後は九×九マスの九九テストを、毎日、算数の時間に解いた。
漢字のテストも、毎週のようにあった。
どちらも、間違いが多ければ、正解できるまで、放課後残された。先生は、生徒達がちゃんと正解を出せるようになるまで、気長につきあっておられた。九九がわからない生徒は、クラスでは最後は1人もいなくなった筈だ。
漢字も九九も
短時間の小テストを毎日やり、正解できるまでチェックする
という繰り返しで、落ちこぼれが出るのを防いでいた。
その時代には、いわゆる「モンスターペアレント」問題はほとんどなかった。各クラスに
教育熱心なおかあさん
というのは1-2人いたけれども、何かある毎に学校に怒鳴り込んでくる親というのはいなかった。
もっとも、その頃でも、ネグレクトは普通にあった。
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