古代日本の「アンフォラ」 京都府木津川市上津遺跡現説@9/20 10:00〜
古代地中海世界では、アンフォラという素焼きの両手つき甕の中に、ワインやオリーブオイル、穀物などを入れて船で運んだ。
木津川市の上津遺跡から見つかった
長頚壺は日本古代のアンフォラ
だということができる。
この首の長い壺に、漆の産地から、漆を入れて泉津まで運んだ。この長頚壺の容量は、一杯まで入れると1.8lで、普通に入れると1.5lほどだそうだ。形はそんなに相違がないが、地方差は多少ある。現地で確認したところ
延喜式の漆の貢進国と重なる産地からも運ばれていたようだ
との答だった。
漆の場合は、おそらく一升を単位として、漆がこの壺に入れられていたらしい。
泉津に到着した漆は、長頚壺の首を折って、甕に移し替えられた。漆は大変高価なものだったので、長頚壺からは、こそげ取るようにして、漆を移した。だから、長頚壺には、あまり漆の痕跡がない。
移し替えられた甕に残った漆。これもまた、泉津からどこかへ移されるときに、中をこそげるようにして、移したようだ。
甕に残っていた漆皮膜をこそげたもの。
現地の説明では、中に入っていた漆は、現代の価値に換算して
長頚壺1個=一升=24000円
だそうだ。これを興福寺の阿修羅像に使われた漆の量で換算すると、
阿修羅像に使われた漆だけで、現代の価格にして5000万円ほど
だという。いかに漆が高価で貴重であったかがわかる。
ところで、長頚壺で運ばれたのは、漆だけではなかった。
長頚壺の底に残った有機物の痕跡。
現代のクライムサスペンスドラマだと、いとも簡単に残滓の内容を分析にかけて解明しているが、この残滓はどう分析するか、そこから考えないと、とのこと。
可能性としては、油や酒など、貢進された液体の税であろうとのことだった。
上津遺跡から見つかった土器片に付着した朱。
朱もまた、高価で貴重な産物である。これは分析に掛ければ、ある程度産地が絞り込めるだろう。
上津遺跡に官衙があったことを示す墨書土器。
「足」の字が見える。
上津遺跡の今回の発掘現場。全体で100平米ほどの狭い現場だ。
レオパレスを建てる前に、遺跡にかかった土地なので調査したら、掘っ立て柱跡が多数見つかった。
柱跡は重なっていて、短い時期に建て直されている。一応、総柱建物なので、一時的な管理保管庫だったらしい。
柱穴に、土器片が散乱して出てきている。見ての通り
砂地の現場
なので、保存が大変。水は比較的抜けやすいが、足場が確保しにくい。水が抜けやすいために、柱が残らなかったようだ。
現場の土の層がえぐれているのが分かる。
現場で聞いたら、
掘ってる間に、雨などで浸食されて、えぐれた
そうで、なかなか大変な発掘だと推察する。
この場所は、氾濫原に当たるので、
柱跡が重なっているのは、洪水で保管庫がダメになる毎に頻繁に建て替えたのでは
と考えることもできる。
現場では、
古老の言い伝え
を地元の人で話していた。何でも
そこらの木を全部切って運んだから、いまでも木が生えないはげ山がある
のだ、とのこと。都や社寺の造営に、この辺りの山の木を切って運んだという言い伝えが残っている。
鎮守の森というので、木に手をつけられず、かろうじて残っているのが、現場のすぐそばにある
御霊神社の森
だ。
ここの茂り方と、他の場所の木のない状態を見ると、なるほど、古老の言い伝えが今に残っている理由がわかる。
今回の遺跡の年代は
恭仁京以後(750年前後)〜奈良時代末
辺りのものだという。平城京に都が戻って、東大寺の大仏ができあがり、789年に長岡京に遷都するまでの間のものだ。
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