恩師から電話を頂く
はまりまくった論文の校正をようやく脱稿して、pdfで送ってほっと一息。
なぜか落ちていた『經典釋文序録疏證』のpdfから、『經典釋文』自序を翻字していたところ、携帯に電話。誰かしら、と思ったら、恩師であった。ひたすら恐縮。
退官(ではなくなったのだが、慣習上、つい退官と言ってしまう)を数年内に控えていて、
今年は暇になるかと思ったら、全然
だそうで、去年より働かされているとの由。大学へ行くと書類が山をなして押し寄せてくるとかで、
パソコンで毎日書類作ってるばっかり
だとのお話。文学部にはこうした雑用をこなす
助手さん
という有り難い存在が以前はいたのだが、とっくに消え失せている。恩師が雑用に時間を費やしているかと思うと、ひたすらもったいないのだが、文科省はそこまで考えてはいないに違いない。有能な研究者が、雑用の山に押しつぶされるのは、日本の文科行政が
エライ人ほどジェネラリストに
という、まるで研究者の有能さが
事務処理能力の速度で決まる
ような誤ったシステムを温存して、なおかつ
国立大学を独立行政法人に移管して「国家公務員を減らす」
という、はっきり言って
国立大学に死ねと言っているのとあまり大差ないチキンレースを強いている
辺りに問題がある。文科省からすると
金を稼げない学問は、伝統文化の範疇で処理
したいに違いない。
恩師は、中国の学界からも
世界に僅かに残っている「伝統文化継承者」
と目されている研究者である。つまりは
中国哲学の古典を縦横無尽に読みこなせる
ということであり、今や、いくら中国が孔子学院を世界中に建設しようとも、肝心の
古典を古典として読むことの出来る研究者とそうした人材を育成する研究室は世界でも極限られたところにしかない
のである。そのお一人が恩師ということになる。そうした貴重な人材が、事務仕事に忙殺されるのだから、日本の文科省が
いかに人材を大事にするという観点に欠けているか
が、分かろうというものだ。
ま、京大も京大で、建学の志を捨て、
京大の柱の一つであった古典学を冷遇しつつある
わけで、恩師は、以前から
これからの人達はどうなってしまうのかな
と前途を憂いておられた。
先日、職場で、ある先生に
文学部なんて何の役に立つんですか
とか凄いことを言われたのだが、実学重視の大学出身だとそう思う人がいてもしょうがないのである。
京大文学部に入って一番驚いたことは、
文学部の教官は、世界を相手に、堂堂と学問をしている
ということだった。入ったのが、当時「京都学派」と世界の印度学で喧伝されていた印度学の一講座だったことも、その印象を強めたは否めない。
同じ国立でも、北大辺りだと、やはり実学重視の学風があるから
文学部なんて
という感じがあるけど、京大は
文学部こそが学問の中心
と信じて疑っていなかった。入試成績でも
医学部を含めた全学の入試トップが文学部へ入学
したりするのは、珍しいことではなかったのである。
ま、それも過去の話。
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コメント
遅レスですけれど、本当に哀しいお話ですね。拝金主義が跋扈しすぎて「知」に対するリスペクトがまったく無くなり、若い人達の知への憧憬も無くなってしまったというのが日本の現状でしょうか。
> 先日職場で、ある先生に 文学部なんて何の役に立つんですかとか凄いことを言われたのだが、実学重視の大学出身だとそう思う人がいてもしょうがないのである。
全然しょうがなくないと思いますよ。私も実学の世界で生きている人間なので行きすぎた学問至上主義者は嫌いですが、その逆は百倍嫌いです。衣食足りたとたんに礼節を忘れ、知をも置き忘れた情けない国になってしまったのでしょうか。経済の停滞や急速な高齢化社会などという以上の大問題だと思います。日本の歴史上ここまで「知」がないがしろにされた時代が過去にあったのでしょうか?
投稿: 暴利医 | 2009-10-26 11:10