とんでもないところではまる
今月の頭に締切の論文なのだが、えらいことになってしまって頭を抱えている。
保存処理をしたら、釈読が変わったというので、初校のために手直しをしてるんだけど、
なんでこんな音注なのか
で、悩んでいる。
で、回り回って
段玉裁 周禮漢讀考
なんぞを引っ張り出す羽目に陥っている。ううむ、そこまでやる必要があるのか、という気はしないでもないのだが、気がついてしまったので、一応確認だけはしなくてはいけない。段さんは、該当箇所で
杜子春は毛詩なんか使ってないから、たぶん三家詩がこうなってたんでしょ〜
と気楽にカマしてくれてるんだが、この気楽さがうらやましいぜ。
そもそも
李富孫 詩經異文釋
をめくっちゃったのが、この悩みの発端である。普通、杜子春が一字をどう読んでるかなんて気にならないのだが、清儒おそるべし。当然、孫詒譲も『周禮正義』でぶつぶつ言ってるわけで、十数年ぶりに『段玉裁遺書』を書庫から持ってきたような気がする。最初は必死に『説文解字注』(こちらはさすがに手元に置いてあるが、『説文解字通訓定聲』は書庫)を捜していたのだが、いくら捜しても出てこないので、
あ、これは『段玉裁遺書』だ
とやっと気がついたというわけ。清朝考証学から遠ざかること長きにわたったことを歎くのみである。普通は
段さんが『周禮』でぶつぶつ言ってるなら、まず『周禮漢讀考』だろう
と一瞬で気がつかないといかんのである。ほんまアホやな。
しかし、陳喬樅はええ加減な奴やな。陳喬樅だけ読んでたら、何のことだかさっぱり分からなかった。
はまりついでに、段さんの『毛詩故訓傳定本小箋』『詩經小學』と『春秋左氏古經』もお呪い代わりにめくっておこうっと。
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