「索引は、全文を数回通読した人間だけが使っても構わない道具だ」@原実先生
学生の頃、その当時東大の梵文の教授だった原実先生が京大に集中講義にいらっしゃった。
原先生が繰り返し仰っていたのは
concordanceを使うことができるのは、その文献の全文を数回通読した後の話だ
ということだった。それは原実先生の実体験から仰っていることで、わたしのような不出来な学生は、パーリ三蔵を何度も通読してから索引を使うなどということは当然ムリで、最初からconcordanceに頼る、原先生から見れば、話にならない学生だったことになる。
さて、電子化テクスト全盛の昨今、
文字列を捜すのは上手
にできるようになったが
実際に文字列に書いてあることが読めてない学生や院生等等
は確実に増加している。たとえばゼミで
注釈のある文章を取り上げる
ということは
注釈の部分も読み込んでこい
ということと同義だと思っていたら、本文しか読んでこないとか、注釈の部分は何が問題になっているのか理解してないとか、自分が作ったレジュメに引用した文章が読めないとか、まあ、
電子化テクストで同じ文字列だけ拾ってくればよい
という弊風に染まり、
問題は何か
という本来のところに全然目が行ってなかったりして頭が痛い。自分が作ったレジュメが読めない学生や院生については、かつて巨大なレジュメを作って自爆していたわたしにも経験があるところなんだけど、最近の傾向は
文字列のコピペだけしてきて、点も切ってない(中国語文言文の場合)
とか、ま、いろいろ凄いことが起きる。
で、中国学の話なんだけど、よく分からないのは
十三経注疏
に含まれる経文にせよ、注にせよ、レジュメで言及するときには、当然前後の経文や注、そして該当部分の
疏も読んでおく
ものだと思っていたら、それが常識じゃなかったのでビックリした。
大体『十三経注疏』を使ったら
その引用した部分について、注はどう言っていて、疏はどう言っていて、この場合はどう読んだらいいのか
は、学部のゼミで3回生くらいからガシガシと先生から突っ込まれると思っていたのだが。
清朝考証学の細かい読みとインド文献学の細かい読みはよく似ているけど、どっちがよりしんどいかというと、元がサンスクリットだということを除いても、インド文献学の方がよりしんどい。そうした字句への執念が印度学を支えている。インド文献学の注疏の付け方は、清朝考証学とは比較にならないほど細かくみっちり議論して、場合によっては暴走するわけだけど、そうした暴走の様子を含めて、その文献のすべての成り行きを自分の目で何度も確認した上で
索引を使え
というのが原実先生のおっしゃったことだった。
電子化テクストによって、巨大な知識の蔵を手に入れたのはいいのだけど、果たして
ちゃんとテクスト全体の構成が頭に入った上で議論できているか
というと、事態はそうした理想からどんどん離れて行っている。
いくら巨大なデータベースを持っていたとしても
ある文章が読めるようになる
までかかる時間は、電子化テクスト以前と変わらない。よほどの天才は別にして、普通の人は、何度もトライして、やっと薄紙を剥ぐように意味が見えてくる。薄紙は薄いくせに、なかなか剥がれない厄介なものだが、剥がれ始めると、面白いようにぽろぽろと剥がれてくる。そこまで行くためには、ひたすらテクストと向き合うしか方法はない。
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