本棚を組み替える
一体何冊書籍があるのか、数えたことはない。たぶん1万冊はとっくに超えているのだが、考えないようにしている。それでも書籍は増える。
最近、冷僻字(ほとんど使われない漢字)を扱うことが多いので、堕落なんだけど、『大漢和辞典』を勉強部屋に移した。『漢語大詞典』と『漢語大字典』は書庫に置いたまま。さすがに全部は持ってこられない。こっちはCD-ROMもあるみたいだけど、なぜか以前買った版がうまく動かなかったので、そのまま書冊体を使っている。
信じられない話だろうけど、学部生の頃
大漢和辞典を引いてはいけない研究室
にいた。研究室に『大漢和辞典』は置いてあるんだけど、あまり見てはいけなかった。当たり前だが、出典調べに使うなど言語道断。どうしても文字が読めないときに引くのはしょうがないのだが、その程度のものであって、文学なら
出典調べはまず『佩文韻府』でやれ
であり、哲学なら
『経籍纂詁』を引け
だった。
学部では魏晋南北朝時代辺りの詩を調べることが多かったので、そうなると『佩文韻府』は使えず、死ぬ気で三冊本の
『先秦漢魏晋南北朝詩』を頭からめくる
というのが、ゼミの下調べだったりした。シラフでやると疲れるので、適宜呑みながらやると、その内見つかるという代物である。『先秦漢魏晋南北朝詩』は、文字どおり百遍以上は、頭から最後までめくっている。
今はCD-ROMなどがあるからこんなバカなことはしなくてもいい。
そんなこんなで
『全唐詩』を頭から引いて出典を調べる
くらいは平気でできた。『全唐詩』というところがミソで、人間が目視で出典探しをできる限界が『全唐詩』である。宋詩でそれをやれ、といわれても、出来るような分量ではない。
さて、そういう非効率的な勉強法が役に立ったのかというと、これは役に立った。というか印度学はもっと非効率的だったので、たいていの書物には索引がある中国学は典籍の数は多いけど、下調べの楽さ加減は100倍増しくらいに感じた。
こうした非効率的な勉強は、目的の文字列を捜すまでにいろんな文脈をブラウズしていく訳で、麻雀でいうところの
対局観
が身につく。どの時代の文章かというのが、ぱっと見て分かるとか、誰の作風かというのが大体見当が付くというのは、こうした非効率的な勉強で養うものだった。人間の時間は限られているから、あらゆる作者の文章を読むわけにはいかない。ただ、こうした下調べで短時間に大量の文章を眺めていると、その内、ある程度の傾向は分かってくる。
文字列だけを検索できるいまの電子化テクストの難点はここにある。まあ、その内、文字列探しがうまいのが有能な研究者という過去の評価基準はなくなり、代わりに
ちゃんと文章を理解し、説明できる能力
がもっとクローズアップされると思う。この点は今も昔も変わらないんだけど、文字列探しに血道を上げていると、どうしても読む方がおろそかになる。自戒したい。
『大漢和辞典』を引っ越すのに、棚の高さを変え、ぎっしり詰まったハードカバーの書籍を別な場所に移さなければならなかったのだが、当然ながら
全部を『大漢和辞典』の場所に置く
ことは無理だった。『大漢和辞典』は使いやすい場所に置いた。すると、その場所にあったのは、手元の一番目につくところに置いてある書籍だから、普段使う頻度が高い。そこに『大漢和辞典』を突っ込んだので、一部を除いて、積むことになってしまった。
書籍というのはおかしなもので、積むと使いづらい。場所が分かっていても、やはり棚に立っている方が使いやすい。昔の唐本や和本なら軽いし、傷みやすいから、横積みが普通だったけど、堅い造本は積むとダメだ。箱入り本でも、箱の底に書名の印刷されてないものが多く、積むとどの書籍だったか分からなくなる。
大きな引越のあとは、小さな部分的引越がしばらく続く。棚が落ち着くまで、ちょっと時間がかかりそうだ。
今困っているのは、平装本の『太平広記』が平積みになってることで、よく使うわけじゃないけど、使うときは揃ってないと困るので、どうしよう。電子化されてるけど、冷僻字が少なくないので、書冊体を置いておかなくてはいけないという、代表的な書物である。平装本は積んでおいてもすぐ崩れるし、壊れやすい。
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