岩波新書で家が建った時代
昨日、久々に研究所に恩師を訪ねた。
で、その時に出た話が
昔は岩波新書を出すと家が建った
という話である。
その昔、というのは岩波新書が200円台だった頃だから、たぶん今から30年くらい前だろうな。
で、岩波は書店買い取り制。
印税は太っ腹で15%。
その当時は岩波というと5万〜10万くらい刷ったんじゃないの、という。
すると、岩波新書を一冊出すとそれだけで
印税が定価×0.15×10万
というわけで、増刷がかかると、
家の手付けくらいは払えたんじゃないのか
という話である。某大先生のお宅は岩波のおかげで建った、とか教えて下さった。
それほど
文化に価値を置くヒトが多かった
ってことでもあるだろう。貧乏な時代には
読書は一番金の掛からない娯楽
だ。確かに
岩波新書は出たらすぐ買う、全部揃える
というヒトが存在した時代ではあった。町にも本屋があり、岩波新書も岩波文庫も、そこらで気軽に買えた時代だ。
最近はそんな景気のいい話はとんと聞かない。岩波を置いてない本屋だってある。
で、岩波の思想大系の話になって
洋学・蘭学研究はあの当時は分厚かったですよね
と水を向けると
あの頃の方が、今より貧乏な時代だったはずやのになあ。よう、研究認めてくれてたなあ。
と感嘆されていた。オンライン化した現在の方が、研究は楽な筈だが、今よりもっとデータ検索などの研究ツールは条件が悪く、ちょっとした調べ物にも時間がかかった時代に先学の積み上げた業績はなかなか追い越せない。
いま、もし洋学・蘭学なんて研究しようと思っても「それが何の役に立つんだ」で、まず研究を認めてくれない
という話になった。経済もデフレだが、文化の価値もデフレ化していて、
金にならない学問は死ね
と言われているのが、昨今である。
日本は歴史の古い国だが、いまこれまで積み上げてきた文化をバンバン捨てている。金にならない学問は後継者が育たず、その内
誰もその一次文献を読めなくなる
恐れがある。そうなると、ゴミと変わらない。文化の価値が激変した
幕末〜明治にかけて、襖の裏貼りや輸出品のパッキン代わりに貴重な文化財が流用される
ことになったけれども、これから同じことが洋紙の書籍でも起きていくだろう。デジタル化すればすべて解決、という話でもない。
文献というモノは
解読して、普通のヒトにもわかるように説明できる専門家
がいて、初めて価値を持つのだが、いまのシステムは
マイナーな分野の専門家を潰滅に追い込むシステム
だから、
研究するヒトが少数の文献はゴミ同然になる
わけである。
金を稼げない上に、専門家の養成に時間が掛かる文献学には
足腰
が必要で、それはとりもなおさず
母国語以外に3つ以上の言語を読みこなす能力(その内1つは古典語であることが望ましい)
なのだが、いまの大学だと
第二外国語なし
なんて普通になってきているから、その手の足腰は弱る。まだ自動翻訳が専門家が使えるレベルに達していない以上、20歳までに4つくらいの言語(日本人だと、インド・ヨーロッパ語族の言語と別な系統の最低2系統が望ましい)を頭にぶち込んでおくのはムダじゃないんだけど、いまの教育課程だとそれは難しい。
そういえば数年前に
東大文学部で外国語が二カ国語出来れば、研究者なんかにならず、さっさと就職してしまう
という話を聞いたな。その方が生涯賃金が高くなるから、というのが、経済原理に敏く、外国語に堪能な学生諸君の選択だった。
就職氷河期を更に越えた厳しい時代には、大学院への逆流があるかといえば
アカデミックキャリアの先の見えなさ
は、やはり優秀な学生を大学院へはそれほど押し戻さなかったように見える。教育してもそれが
投資
にならず
借金
にしかならないいまの奨学金制度だと、大学院=数百万の借金で、なおかつ先はないかも知れない。これは
アカデミックポストが少ないのに、奨学金を貰ったらある年限で就職してないと返還しなくてはならないという規定
があるせいで、ほとんどの博士持ちにはしんどい制度になっている。こうなると
大器晩成型の学問分野は死に絶えるしかない
ということになる。
冗談でなく
日本古代史の教員はほとんどが中国人になる時代
が来ても、おかしくはないのだ。
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