学者の晩年「年いったら円熟味が出るのではない。ボケて読めんようになるだけや」
お世話になった恩師がそろそろ
定年退官(いまは国立大学の教員は「国家公務員」ではないから、「停年」が正しいのだが)
の時期を迎えつつある。
で、先日、学会でお会いした恩師のお一人が仰っていたのが
年取って、いつまでも、学者という地位にしがみつくのは見苦しい
という説である。なにせ恩師は
中国から経書読みとしての実力を高く評価されている研究者
で、
伝統芸能の伝承者
みたいな方なのである。てか、最近の中国の研究者で恩師と同等に漢代の経学の書物を読める研究者の方が少ない。ちなみに恩師は中国語会話はほとんどされない。所謂
漢文として読む読み方
で、緻密な読みを重ね、今日の研究者としての地位を築かれた方である。その恩師が
幾つで引退するかなあ
と仰るのだった。先師尾崎雄二郎先生が、定年退官(この当時はまだ国立大学教授は国家公務員だった)されるのを目前にして、恩師に
停年っていいものですよ
と話されたそうで、
国家が「お前には今後研究を認めない。お前はゴミだ」と宣言してくれるんですからね。こんな有り難い制度はない
と、やや露悪的な口調で続けられたのだとか。
恩師は更に
年いったら円熟味が出るのではない。ボケて読めんようになるだけや
と、
老大家の「円熟味」をありがたがる風潮
を斬って捨てられた。まあ、世の中には
60より70、70より80の方が「読めるようになる」
という特異な研究者もおられるのではあろうが、恩師が仰るには
普通は年いったら、頭がボケていくだけやからな
とのことである。で、何人かのすでに物故された老大家の晩年の著作に言及されて、溜め息を洩らされるのであった。
中国学の老大家が陥りやすいのは
これまで全く顧みなかった日本の漢文分野に突然足を踏み入れる行為
で、確かに「漢文読み」としては力はあるのだが、往々にして
読み間違える
というのが、恩師の見るところである。
そりゃあ、年齢が高くなれば、以前のように自由に他書を参照するのも難しくなるし、今のご時世、書生のように老大家の研究を支えてくれるような便利な存在がすぐ傍に侍して、調べ物をしてくれるわけでもない。記憶間違いは生まれるだろうし、他書を繙くのも面倒になってくれば、そこで産出されるのは憶説の山に自然なっていくであろう。
ああ、あと何年研究が続けられるのか、若くてもボケ倒しているわたしは、更に溜め息を深くする。
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