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2011-03-08

リヴィエル・ネッツ/ウィリアム・ノエル『解読! アルキメデス写本』光文社 2008 2100円

光文社の書籍というと、柔らかいモノという先入観があるが、これは正真正銘
 学術の世界で起きている凄い話を、一般に分かりやすく当事者が書いた書物
である。なんで、光文社が版権を取ったのか謎だが、ともかく滅法面白い。(光文社というと、たぬ吉さんのリストラなうもあったりして、今はこんな、読者の限られる堅い書籍を出せるかどうかは分からないが。)

1998年10月にクリスティーズのオークションで、あるアメリカ人に落札された、一冊の羊皮紙本。見た目はボロボロで、経年劣化してるだけでなく、黴にもやられており、現況は祈祷書に作り替えられているのだが、
 削られた羊皮紙の上に、未知の「アルキメデスの写本」のインクの痕が残っている
のである。
そのことは20世紀初めに知られており、一度、調査されたのだが、一旦、世間からこの本は消えた。
再び世に出現したとき、
 手の施しようのない程傷みきっていた
のだが、時は20世紀末、わたしたちには
 科学の力
があった。

ことは、ボルチモアのウォルターズ美術館の学芸員、ウィリアム・ノエルが一通のメールを、クリスティーズのオークションで代理人として落札したロンドンの書籍商サイモン・フィンチに送るところから始まる。ノエルは、ウォルターズ美術館で、稀覯本や写本の調査・解説・展示を担当する学芸員である。上司の思いつきで、
 アメリカ人が買った、アルキメデスの写本を、ウォルターズ美術館で展示できないか
交渉する羽目になり、買い手代理人のフィンチにとりあえず、打診のメールを送った。
稀覯本の世界は狭い。数日後、ノエルもよく知っているイギリスの美術商サム・フォッグからメールが来る。フィンチから連絡を受けたフォッグは
 アルキメデスの写本を、所蔵者がウォルターズ美術館に預けて調査するのに乗り気だ
という、望外の返信を寄越した。2日後、ノエルは、ロンドンに降り立ち、フィンチとフォッグと会うことになった。そして、翌年1月、謎の買い手とフォッグが、ウォルターズ美術館にやってくる。なんとその買い手は、最初から写本の問題点を熟知しており、どこかに預けて、保存と学術調査をしてもらう心づもりで落札したのだという。ああ、すばらしいパトロネージ。
こうして、難物「アルキメデスの写本」はウォルターズ美術館に預けられることになった。以後、ノエルは、世界中のギリシャ科学専門家・書誌学者を始め、祈祷書の本文の下に眠っているインクをたたき起こす最先端の技術者などの多数のメンバーを組織し、「アルキメデスの写本」を再び白日の下にさらすためのプロジェクトを運営し始めるのである。このわくわくする冒険の話は、是非、本書を読んで楽しんで頂きたい。
プロジェクト担当のノエルと、解読担当のリヴィエル・ネッツが交互に話を進める構成になっている。

驚くのは
 潤沢な資産を持った所蔵者(どうやら引退しつつあるIT長者らしい)が、「アルキメデスの写本」のために惜しみなく研究のための資金を差し出す
上に、
 登場する全員が「善意のボランティア」としてプロジェクトに参加している
点である。みな、本業を持ちながら、この
 世紀の「再発見」プロジェクトに、土日や休日、休暇を充てて、みずからの専門技術や知識を総動員
して、参画するのである。
ああ、なんて素晴らしいのだろう。
日本で
 個人所蔵家が、ある機関に自分のコレクションを委託
する場合でも
 ふんだんな研究資金をつけて、最高のスタッフをその機関に集めて、調査・研究・保存をはかる
なんてことは、まず、ほとんどないだろう。そもそも、ノエルの所属するウォルターズ美術館が、
 大金持ちのウォルターズ父子が、膨大なコレクションを美術館ごと、ボルチモア市に寄付した
ものである。そうした
 パトロネージ
の伝統は、アメリカには脈脈と生きているのだ。だって
 ホリエモンが、この手の事業に手を貸した
とか、聞いたことないでしょ?
 大金持ちになって、自分のコレクションを秘藏する
というのが、大抵の大金持ちであり、「ミスターB」と呼ばれている
 「アルキメデスの写本」の匿名の所蔵者
のように、
 中身を世界に公開して、世界中の研究者の用に充てるために、惜しみない援助を続ける
という態度は、まあ、あまりあり得ない、珍しいことだと思う。
というわけで、わたしたちは、この復元された「アルキメデスの写本」の画像を、インターネット上で見ることが出来るのだ。
Archimedes Image Bank
プロジェクトのホームはこちら。
Archimedes Palimpsest
ここで出てくる
 パリンプセスト
とは、
 羊皮紙本が再利用される場合、削り取られた元のテクスト
を示す。羊皮紙本は素材が皮なので、新しく写本を書くときは、前の写本の表面をナイフで削り取る。ところが、インクには、鉄分があるので、光学的処理を施して、映像処理すると、
 肉眼では見えない、削り取られる以前のテクストが出現する
というわけなのだ。

これが、紙に書かれた写本だと、羊皮紙本のパリンプセストに相当するのは
 紙背文書
ということになる。紙は裏返して使うからね。木簡だと
 削り屑
が、パリンプセストにあたる。

で、個人的にびっくりしたのは、ネットでの古くからの友人、大阪府立大学の斎藤憲さんが、華々しく登場する点である。斎藤さんは、わたしにはksaitoさんと呼んだ方が馴染み深い。ネット上で知り合ってからもう20年近くになる。
2001年に、斎藤さんは、この書物のもう一人の語り手、ネッツに連れられて、ウォルターズ美術館で、「アルキメデスの写本」の現物を見ている。実はこれが
 研究者が現物を前に、「アルキメデスの写本」の解読をした最後
でもあった。ネッツが描く斎藤さんは、頭の切れるギリシャ数学の世界的研究者で、文献に強く、かつ、粘り強くマニュスクリプトを解読している。
たしか、この前後に、斎藤さんは、アルキメデスの故郷シラクサに呼ばれて、講演をしたはずだ。さすがに、イタリア語ではなかったと聞いた。
ちなみに、斎藤さんはいつも大学の休暇を利用して、ヴァチカンのアーカイブ等、世界中の写本のある図書館に調査に出かけている。本書にも出てくるけど
 世界で写本も含めてギリシャ語原典を直接読んで研究している、ギリシャ数学研究者は30人に満たない
のである。なぜなら
・省略して誌されていることの多いギリシャ語原典から、正確に、数学的意味を読みこなす力
・書き手によってクセの違う、マニュスクリプトを読み取る力
・英語・仏語・独語・イタリア語といった現代語はもちろん、これまでに書かれている古い論文に使われているギリシャ語・ラテン語も読みこなす力
と、必要とする語学力や読解力が、印度学並のしんどい学問だからだ。印度学でも
 印度科学史とかサンスクリット古典文法
になると、やっぱり研究者の数は限られてくるから、状況は似ているかも知れない。(サンスクリット古典文法になると、更に研究者数は限られ、優れた研究書を読みこなし、その真価を正当に評価できる人間が世界中で10年に一度くらいしか出てこない、という、まあ、現代の時間の流れからすると、気の遠くなるような話になる。)
たぶん、日本では一般的には斎藤憲さんの名前はさほど有名ではないかも知れないが、日本が誇る、世界的研究者の一人である。ご本人はいたって気さくな人だけどね。
本書では、解説も担当されているので、そちらも合わせてお読み頂くと、一層分かりやすい。

おまけ。
斎藤憲さんが、本書で登場するアルキメデスの論文『方法』について書いた書物はこちら。共立出版のサイトより。


書名 天秤の魔術師 アルキメデスの数学 著者名 林 栄治・斎藤 憲著
ISBNコード ISBN978-4-320-01910-2
サイズ/本体価格 A5・268頁・3,300円
内 容
アルキメデスは古代世界で最も有名な数学者であり,技術者でもあった。しかしその数学の内容を説明することは,それほど容易ではない。そこで本書では,『方法』というそれほど大きくない著作を中心に展開し,アルキメデスの議論の背景や意図を徹底的に探求して解説することを目指した。
目 次
アルキメデスとその著作・回転放物体の切片(命題4, 5)・球(回転楕円体)の体積と半球の重心(命題2, 3, 6)・球の切片(命題7-10)・残された立体:回転双曲体命題11の復元・放物線の切片の面積(命題1)・爪形の体積(命題12+13:天秤による求積)・爪形の2つの求積法(命題14, 15)・交差円柱とアルキメデスの意図・交差円柱:失われた証明

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