桃山末期から散逸していない個人蔵書 書痴の楽園「田中彌性園文庫」@杏雨書屋
昨日は、
杏雨書屋の研究講演会&特別展示会(PDF)
だった。内容は
杏雨書屋が受け入れた、桃山末期から散逸していない個人蔵書「田中彌性園文庫」の概略
で、
豊臣家に仕えた田中家に伝わる、秀吉が明から取り寄せたとおぼしき明版医書の数々
を始めとする膨大な文献・文書・書画類のさわり部分を展示し、かつ田中家当主の田中祐尾先生、調査に当たられた小曽戸洋先生、町泉寿郎先生の解説講演というラインナップ。
何が凄いって
桃山末期から散逸させなかった田中家の底力と意志の持続が凄い
のである。
田中家は、三輪神社(大神神社)の神官次男として生まれた初代田中基則(1553〜1595)が、天正13(1585)年豊臣秀長に仕えたところから始まる。秀長は長宗我部元親を降した功績で、同年、大和国を加増され、郡山城に入った。田中基則もこの際、郡山城の北西に田中村の領主として三千石の地を与えられたことになっているのだが、田中祐尾先生のご指摘通り、三千石には足りない広さなので、飛び地として、後に田中家が定住することになる八尾東郷村が与えられていたのであろう。君主秀長は天正19(1591)年没し、甥に当たる養子秀保が後を継いだ。秀保は関白秀次の子で、天正7(1579)年生まれ、当時数えで13歳の少年君主である。
翌年は元号が文禄と改まり、秀吉の第一次朝鮮出兵の年である。翌二年、秀頼の誕生により、関白秀次とその血筋は追い込まれて行く。田中祐尾先生によれば、吉野で初代基則は秀保を抱いて吉野で入水した。秀保はこの時数えで17歳。二代為則(1587〜?)は居を現在の田中家の所在地である八尾東郷村に移し、以後、田中家は400年以上をこの地で過ごしている。
田中祐尾先生は、その後、徳川幕府による、豊臣家の残党狩りを恐れて帰農、東郷村でひっそりと暮らしていたのが、田中彌性園文庫が残った理由の一つであると仰っていた。
以後、今日まで代々医業を営んでいる。
小曽戸先生と町先生が、初めて田中家を訪れた際
古い書物が土蔵の二階にありますが
という、なんの衒いもないお話で、二階に上がったら
傷みの少ない明版が山をなしていた
そうで、夢中でシャッターを切っていたら
なくなるものではないので、ゆっくり(大意)
と田中祐尾先生にやんわり忠告された由。
杏雨書屋が無料で配布している、今回の展示の図録によれば
漢籍は明〜清刊のみで、叢書を1種と数えれば全26種
和刻本は55種
漢籍の江戸抄本が21種
国書医書刊本が148種(ほとんどが江戸時代のもので明治刊本は2種)
国書医書の日本抄本が134種
その他、多数の著名文化人の書蹟・手紙・画幅等
がある。これらをいま杏雨書屋が受け入れて、整理をしているところで、目録はまだない状況である。
いや〜、書目がトンでもないのですよ。
明治以降、ほとんどのこうした中国・日本医学の書物は、学制改革により
無用の長物
とされて、多くの蔵書が散逸した。いま、わたしたちは
江戸期〜明治初期の書目
によって、かつて文化人でもあった医師達の蔵書を知ることは出来ても
現物を見るには、それらを持ち去った中国人の蔵書を辿って、中国・香港・台湾等海外で調査する必要がある
のだが、
北京国家図書館や台湾故宮博物院等に行かないと、見られないような書籍が、杏雨書屋に入った
んですよ! って、世界でも中国・台湾・香港を除くとたぶん100人くらいしか興味のなさそうな話(中国・台湾・香港を入れると、たぶん何万人オーダーになると思われる)を日本語でしてますけどね。
これで、旅費の工面に頭を悩ましていた問題、
北京の国家図書館等、大陸の図書館にそんなに頻繁にいかなくて済むかも
と思って、欣喜雀躍しているところである。だって、大陸の図書館って、現物をそうそう見せてくれませんからね。杏雨書屋であれば、まだ、交渉の余地はあるけれども、中国だと問答無用だったりするからね。
それに何より
田中彌性園文庫は保存状態がすばらしく良好
なのである。それだけでも価値が高い。
というわけで
今年は田中彌性園文庫を見に、せっせと十三の杏雨書屋に通うぞ
と心に決めたのである。うちからなら、近いしね。
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