東海・東南海・南海地震 1361(康安元/正平16)年に関西に大津波襲来か@法隆寺の古文書解析→『太平記』の記述と符合
先日、京都在住の東北出身の恩師と電話で話したときに
次はこっちを気をつけないとなあ
と仰っていたのだけど、1000年に一度の地殻変動があったわけで、いつ何時、うっすらと日本人が想定している
次の大地震である「東海・東南海・南海地震」が起きるか
皆目見当が付かない。
しかし、備えておくことは出来る。
このところ、
古記録の洗い出し
が次々行われているのだが、東大の都司嘉宣准教授の調査で
1361(康安元/正平16)年に関西に大津波が襲来
したことが分かった。神戸新聞より。
1361年に定説覆す大津波か 南海地震100~150年周期で発生するとされる南海地震で、これまで最大規模とされてきた1707年の「宝永地震」以前に、この時を上回る津波に近畿地方が見舞われていた可能性のあることが、東京大地震研究所の都司嘉宣准教授の調査で分かった。兵庫県の津波予測は、宝永地震をモデルに最悪の被害想定をしてきたが、3月の東日本大震災と同様、南海地震でも従来の想定を超える超巨大地震が起きる恐れが出ている。(安藤文暁)
南海地震は、東海沖から四国沖の南海トラフ(海溝)沿いで周期的に起こるプレート境界型の地震。直近では1946年にマグニチュード(M)8・0の規模で起こり、淡路島などに津波が押し寄せた。今後30年間の発生確率は60%程度とされる。
宝永地震は、東海・東南海地震と同時に発生。M8・6は、M9・0の東日本大震災が起こるまでは国内最大級で、死者も2万人以上。兵庫県の瀬戸内沿岸部でも高さ2~3メートルの津波があったとされる。
それ以前の南海地震に関する詳細な記録はほとんど見つかっていなかったが、都司准教授は1361年の「正平(康安)地震」について記した法隆寺(奈良県)の記録を調査。海岸から4キロ以上、宝永地震の記録より約1キロ内陸の大阪市天王寺区の寺社まで津波が押し寄せていたことが確認されたという。都司准教授は「宝永地震と同じく、東海、東南海と同時連動した地震だった可能性が高い」と指摘する。
宝永地震については、同じ南海トラフ上にある九州・日向灘でも同時に地震が起きた「4連動地震」の説もあり、東京大や京都大などのチームは「300~500年周期で4連動地震が発生している可能性がある」とする。その場合、破壊される断層は約700キロに達し、東日本大震災の約500キロを上回る。
国は東海、東南海、南海地震の同時発生に備え、本年度から本格的な被害予測に着手。東日本大震災を受け、兵庫県も防災計画を見直す。
都司准教授は「兵庫でも宝永を上回る津波が過去にあったと考えてもおかしくない。最悪を想定した対策が必要」と話している。
(2011/05/03 08:31)
さて、法隆寺の記録にどう書いてあったかわからないけど、1361年の地震について『太平記』は次のように記す。
太平記卷第三十六
大地震 夏雪事
同年ノ六月十八日ノ巳刻ヨリ同十月ニ至ルマデ、大地ヲビタヽ敷動テ、日々夜々ニ止時ナシ。山ハ崩テ谷ヲ埋ミ、海ハ傾テ陸地ニ成シカバ、神社佛閣倒レ破レ、牛馬人民ノ死傷スル事、幾千萬ト云數ヲ不知。都テ山川・江河・林野・村落此災ニ不合云所ナシ。中ニモ阿波ノ雪ノ湊ト云浦ニハ、俄ニ太山ノ如ナル潮漲來テ、在家一千七百餘宇、悉ク引鹽ニ連テ海底ニ沈シカバ、家々ニ所有ノ僧俗・男女、牛馬・鷄犬、一モ不殘底ノ藻屑ト成ニケリ。是ヲコソ希代ノ不思議ト見ル處ニ、同六月二十二日、俄ニ天掻曇雪降テ、氷寒ノ甚キ事冬至ノ前後ノ如シ。酒ヲ飮テ身ヲ暖メ火ヲ燒爐ヲ圍ム人ハ、自寒ヲ防グ便リモアリ、山路ノ樵夫、野徑ノ旅人、牧馬、林鹿悉氷ニ被閉雪ニ臥テ、凍ヘ死ル者數ヲ不知。七月二十四日ニハ、攝津國難波浦ノ澳數百町、半時許乾アガリテ、無量ノ魚共沙ノ上ニ吻ケル程ニ、傍ノ浦ノ海人共、網ヲ卷釣ヲ捨テ、我劣ジト拾ケル處ニ、又俄ニ如大山ナル潮滿來テ、漫々タル海ニ成ニケレバ、數百人ノ海人共、獨モ生キテ歸ハ無リケリ。又阿波鳴戸俄潮去テ陸ト成ル。高ク峙タル岩ノ上ニ、筒ノマハリ二十尋許ナル大皷ノ、銀ノビヤウヲ打テ、面ニハ巴ヲカキ、臺ニハ八龍ヲ拏ハセタルガ顯出タリ。暫ハ見人是ヲ懼テ不近付。三四日ヲ經テ後、近キ傍ノ浦人共數百人集テ見ルニ、筒ハ石ニテ面ヲバ水牛ノ皮ニテゾ張タリケル。尋常ノ撥ニテ打タバ鳴ジトテ、大ナル鐘木ヲ拵テ、大鐘ヲ撞樣ニツキタリケル。此大皷天ニ響キ地ヲ動シテ、三時許ゾ鳴タリケル。山崩テ谷ニ答ヘ、潮涌テ天ニ漲リケレバ、數百人ノ浦人共、只今大地ノ底ヘ引入ラルヽ心地シテ、肝魂モ身ニ不副、倒ルヽ共ナク走共ナク四角八方ヘゾ逃散ケル。其後ヨリハ彌近付人無リケレバ、天ニヤ上リケン、又海中ヘヤ入ケン、潮ハ如元滿テ、大皷ハ不見成ニケリ。又八月廿四日ノ大地震ニ、雨荒ク降リ風烈ク吹テ、虚空暫掻クレテ見ヘケルガ、難波浦ノ澳ヨリ、大龍二浮出テ、天王寺ノ金堂ノ中ヘ入ルト見ケルガ、雲ノ中ニ鏑矢鳴響テ、戈ノ光四方ニヒラメキテ、大龍ト四天ト戰フ體ニゾ見ヘタリケル。二ノ龍去ル時、又大地震ク動テ、金堂微塵ニ碎ニケリ。サレ共四天ハ少シモ損ゼサセ給ハズ。是ハ何樣聖徳太子御安置ノ佛舍利、此堂ニ御坐バ、龍王是ヲ取奉ラントスルヲ、佛法護持ノ四天王、惜マセ給ケルカト覺ヘタリ。洛中邊土ニハ、傾ヌ塔ノ九輪モナク、熊野參詣ノ道ニハ、地ノ裂ヌ所モ無リケリ。舊記ノ載ル所、開闢以來斯ル不思議ナケレバ、此上ニ又何樣ナル世ノ亂ヤ出來ランズラント、懼恐レヌ人ハ更ニナシ。
○天王寺造營事付京都御祈祷事
南方ニハ此大地震ニ、諸國七道ノ大伽藍共ノ破タル體ヲ聞ニ、天王寺ノ金堂程崩レタル堂舍ハナク、紀州ノ山々程裂タル地モナケレバ、是外ノ表事ニハ非ジト御愼有テ、樣々ノ御祈共ヲ始ラル。
まず
正平16年6月18日はユリウス暦の1361年7月20日
で、
同10月末日の10月29日はユリウス暦の1361年11月27日
である。『太平記』の記述では
1361年7月20日〜11月27日頃までずっと地震が起きていた
ことになる。その内、大きな地震は
・日付不明(恐らくユリウス暦の7月20日) 阿波国雪湊(現徳島県海部郡美波町由岐地区)に大津波襲来、1700戸余りが流失し全滅
・正平16年6月22日(ユリウス暦 7月24日) 異常気象で、真夏に降雪。凍死者多数。
・同年7月24日(ユリウス暦 8月25日) 摂津国難波浦で1時間ほど大規模な引き潮があり、その後大津波が押し寄せ、死亡者数百人。また、阿波国鳴門(現徳島県鳴門市周辺?)では、大きく退潮、3-4日後、津波が押し寄せる。
・同年8月24日(ユリウス暦 9月23日) また大地震が起き、難波浦から大津波が押し寄せ、四天王寺(現大阪市天王寺区の四天王寺)の伽藍を破壊。
四天王寺の位置はこちら。
大きな地図で見る
・同日の地震により、京内外を問わず、堂塔は傾き、熊野への参詣道は地割れがあちこちに生じた。この日の地震・津波による被害がもっともひどかったのが、四天王寺金堂の崩壊と紀州の山々の崩落であった。
というわけで、都司准教授の研究は、
『太平記』の四天王寺崩壊の記述を補強する材料が法隆寺の記録から得られた
ということだろう。
御存知のように、四天王寺・法隆寺とも聖徳太子と縁の深い寺院であり、中世のこの時期、四天王寺被災の記録が法隆寺に残っていても不思議はない。
『太平記』の
難波浦ノ澳ヨリ、大龍二浮出テ、天王寺ノ金堂ノ中ヘ入ルト見ケル
という記述は、
黒く高い大津波が、凄まじい速度で沖合から内陸まで押し寄せた様子を描写
したものだというのが、3月11日のあの恐ろしい光景を見た後では、よく理解出来る。
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