『周礼注疏』を読む
恩師の最終年度のゼミが『周礼注疏』だと伺ったので、許可を頂いて拝聴した。
たぶん、世界中で最も優れた礼学の読み手による、最後のゼミである。
文学部が建て直ってから、図書館以外に行ったことがないので、事務室でゼミを行っている院生室の場所を尋ねる。後ろのエレベータで行けばすぐだと教えて貰った。
なぜか、エレベータで落合先生と一緒になった。最近、いろんな方と思わぬところで逢う。
春官の頭から読んでいる、とのことで、最初の部分は恩師が読んでくださるという、大盤振る舞い。それも手取り足取り教えてくださるのである。贅沢きわまりない。最終年度の特別大サービスだ。
注疏というのは、クセのある文体なので、なかなか読みがたい。恩師は、気がついたときは読めるようになっていた、と仰るのだが、それは才能に恵まれたごく僅かな限られた方の特例で、普通は難儀しながら、注疏の文体に慣れるように努力を重ねる。
その注疏の読み方を、後学に残すために、恩師がこれまで研究されてきたすべての学識を、それこそ
瓶の水をうつすように
教えてくださるのである。
注疏解読のすべての秘密
が、惜しげもなく明らかにされていくのだ。何気なくコメントされる一言一言にどれだけの
厳しい読み
が詰まっていることか。
鄭玄と賈公彦の文体を
訓読で読む
最高の手順を目の当たりにできて、実に幸せだ。
礼学は、
儒学、特に漢学の華
だと思う。学生時代、恩師は、研究(中哲や印度学の場合、3回生以上に配当される研究はほぼ演習と変わらない)で
應劭『風俗通義』
を読んでくださった。霊台に関する議論が楽しくて、毎回一生懸命ノートを取っていたのだが、たぶん
礼制の議論が好き
という人間は、残念ながら、世界中でもそんなにたくさんはいないんじゃないかな。
わたしの場合は、礼学を専門に研究できるほどの実力はないので、誰のどういう議論があって、何が論点かという辺りを眺めるに止まるが、礼学は楽しいものだ。あと
鄭玄が好き
というのも大きいかも知れない。鄭玄が好き、というヒトも、たぶんそんなにたくさんいないんじゃないか。
三礼と詩経の鄭玄の注を読む
のは、楽しい。てか
鄭玄の知的宇宙に突っ込みを入れながら読む
のは、実にわくわくする。
残念だったのは、授業が重なっているのか、中文や東洋史の諸君が一人もいなかったことである。
もう、来年度からはこのゼミはなくなってしまうのになあ。
苟も、漢代のみならず、唐代までの文学や歴史(とくに制度史)を扱っている院生ならば、出てきて然るべきなんだけどね。ああ、もったいない。
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コメント
う、うらやましい。
投稿: 八戒 | 2011-05-21 08:30