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2011-05-06

他人の釈文は信用できるか→他人の翻訳は信用できるか

最近、修士以上の若い人たちが
 翻字をしない
という話を職場でしたばかりだったんだが
 どうやら写本もちゃんと読んでないらしい
ってことも分かってきた。写本を全部読むのは大変だけど、関連する場所くらいは、いくつかの系統の本があるなら、最低でも代表的な写本だけでいいから、その部分を見ておくのが当たり前だと思ったら、違うらしい。

まあ、今後国文学の古典分野が衰退するか否かは
 すべての系統の代表的写本が簡単に見られる環境をつくれるかどうか
にかかっている。ま、写本のマイクロを売るのを商売としてきたところもあるから、たぶんそういうところはイヤがるだろうけど。

これは国史も同じで、まあ、基本的な史料は文献批判抜きでは使えないんだけど、
 国史大系があるからいい
とか思ってるヒトがいるのであれば、たぶん、世界の歴史学から遅れまくっている。何かと批判される中国ですら、もうとっくの昔に
 きちんとした文献批判を行って校訂を出す
という作業は終えているわけだ。

木簡研究でも
 ヒトの釈文だけで結論を出す
という場合があるのだが、それって
 自分が木簡を読めないと公言しているのと同じ
ではないかと日頃思っている。てか
 他人の釈文は信用できるのか
って話。最低でも
 写真だけでも見て欲しい
と思うんですがね。それもダメな時はしょうがないけど。

いま、
 世界中のどの分野でも新しい写本が見つかったときの対処法

 多人数で議論しつつ校訂する
というのが一般的になりつつあるだろう。写真を撮り、それをネットで配布して議論するのがまず最初。それでも読めない個所は
 現物をチェックする
というのがその次の工程である。

だから
 他人の釈文を何の批判もなしに使える
というのがまず理解出来ない。要するに
 そういうのは手抜きだ
ということを、きちんと大学で指導してないってことだな。原本は見せて貰えなくても、マイクロあるいは精巧な複製があるだろう。そうしたものを通して
 自分で読む作業
は、およそ20代後半までに基礎を作っておかないと、身につかない。

一番いいのは、学部の頃から、小さいものをこまめに翻字するクセをつけておくことだけどね。

(続き)
malteさんから貴重なご意見をいただいたので再掲する。


翻字とは少々異なるかもしれませんが、翻訳、これまた人の訳で通してしまう研究者やそのたまごが増えていますね。

ことに深刻なのは「詩」の分野です。例えば歌曲の原詩の訳ですが、30年以上前に「偉い」ドイツ文学者が訳した文が無批判に使われ続けている例を時々見かけます。

昔の先生の日本語は流麗なことが多いので、日本語にしてしまうと何となくそれらしく見えるのですが、原文にあたってみると、とんでもない間違いが見つかります。

大先生のお弟子さんがその師匠の訳をそのまま取り入れ、作品の訳が間違いごと引き継がれる例も少なくありません。

バッハの作品の訳など、高名な先生が訳され、それが演奏会のプログラム冊子ににそのまま掲載されているのですが、意味的、文法的、そしてバッハに多い宗教作品ででは、キリスト教の教義的にに絶対にありえない訳が付いていることがあります。

私も実は自分のお世話になった先生のそういう誤訳を見つけてしまい、大先生に言ってよいものか黙っているべきかひどく悩んだことがあります。

やはり人の訳を無批判に信じるのはよろしくないです。

>自分で読む作業は、およそ20代後半までに基礎を作っておかないと、身につかない。

そうそう!そうなんです。大学院あたりでこの基礎を作っておかないと本当に自分で読めなくなります。

学部生の時代から、どんな詩でも文章でも、まずは自分で調べて研究してみる態度を身につけるのがベストだと思います。

malteさん、どうもありがとうございます。
翻訳についても、まさにそのとおりだと思います。
わたしも自分の専門分野の翻訳については、できるだけ自分で訳を付けてから、他者の訳を確認して、信用できれば翻訳者の名前を出して使い、ダメそうなら、ヘタでも自分の訳を付けるようにしています。そのため、短い引用をするのに準備にものすごく時間がかかったりしますが。(そもそも、和訳がないことも多いので、そうなると他の外国語訳も見ながら、自分の訳を使わざるを得ません)
幸い、卒論を最初に書いたのが印度学で、これは文献学で成立しているような学問体系ですので、
 異本(variant)は必ず存在し、現在通行している校訂版(edition)の読みが正しいとは限らない
 写本(manuscript)には必ずcorruptionが存在する
ということを肌身で知っていたので、
 どの言語で書かれたテクストでも必ずvariantを見、意味の通らない部分はcorruptionの可能性を吟味するクセ
がつきました。日本漢文の知識だけで、漢訳仏典や、日本で書かれた漢文テクストあるいは中国語文言(漢文)の文献を読もうとするやり方のダメなところは、malteさんの指摘された問題と同じ部分、つまり漢文特有の
 訓読によって、corruptionの可能性が隠される
ところです。余程syntaxを見極める才能がある方でなければ、中国語の学習をしてから、漢文(中国語文言)に当たれ、と思うのはその点からなのですが、残念ながら、この警告は無視されることが多いです。

最近
 外国語で書かれた詩の評論をする比較文学研究者
の中に
 その言語ができないのに、評論をしている研究者がいる
ことを知って、絶句しています。

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コメント

翻字とは少々異なるかもしれませんが、翻訳、これまた人の訳で通してしまう研究者や
そのたまごが増えていますね。

ことに深刻なのは「詩」の分野です。例えば歌曲の原詩の訳ですが、30年以上前に
「偉い」ドイツ文学者が訳した文が無批判に使われ続けている例を時々見かけます。

昔の先生の日本語は流麗なことが多いので、日本語にしてしまうと何となくそれら
しく見えるのですが、原文にあたってみると、とんでもない間違いが見つかります。

大先生のお弟子さんがその師匠の訳をそのまま取り入れ、作品の訳が間違いごと引
き継がれる例も少なくありません。

バッハの作品の訳など、高名な先生が訳され、それが演奏会のプログラム冊子ににその
まま掲載されているのですが、意味的、文法的、そしてバッハに多い宗教作品ででは、
キリスト教の教義的にに絶対にありえない訳が付いていることがあります。

私も実は自分のお世話になった先生のそういう誤訳を見つけてしまい、大先生に言って
よいものか黙っているべきかひどく悩んだことがあります。

やはり人の訳を無批判に信じるのはよろしくないです。

>自分で読む作業は、およそ20代後半までに基礎を作っておかないと、身につかない。

そうそう!そうなんです。大学院あたりでこの基礎を作っておかないと本当に自分で
読めなくなります。

学部生の時代から、どんな詩でも文章でも、まずは自分で調べて研究してみる態度を
身につけるのがベストだと思います。

投稿: malte | 2011-05-06 20:33

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