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2011-06-13

石原明旧蔵『医心方提要』その後@日本医史学会 6/11 順天堂大学

幕末に江戸医学館が、上進以来、秘本となっていた
 丹波康頼撰『医心方』
を、半井家から借り受け、翻刻に至った事情は、東大史料編纂所の『大日本史料』で知ることが出来る。
東大史料編纂所のサイトより。


大日本史料 第一編之二十一
 本冊は円融天皇永観二年(九八四)三月より同年八月まで及び花山天皇同年八月より同年雑載までの史料を収める。
 安和二年(九六九)八月十三日に兄冷泉天皇の譲位により受禅した円融天皇は、十六年間の治世の後、永観二年八月二十七日に冷泉上皇皇子の皇太子師貞親王(花山天皇)に譲位した。花山天皇は円融天皇の受禅の日に二歳で立太子しており当時十五歳であった。また花山天皇の受禅と同日に円融上皇皇子懐仁親王(後、一条天皇)が五歳で立太子した。懐仁親王の母は右大臣藤原兼家女詮子である。天元五年(九八二)十一月に焼亡した内裏は、永観元年八月に立柱上棟が行なわれたが(前冊)、同二年八月九日に造宮叙位、同月十三日に造宮仁王会が行なわれ、大部分が再建されたことが知られる。花山天皇は堀河院にて受禅の後、新造内裏に遷幸し、皇太子懐仁親王も兼家・詮子の東三条第で立坊の後、入内した。円融上皇は朱雀院を後院に定められたが、依然として譲位前からの御所堀河院に留まっている。
(略)
 学芸では十一月二十八日の針博士丹波康頼の『医心方』撰進と、十一月是月条の源為憲の尊子内親王への『三宝絵』撰進が重要である。『医心方』(三十巻)については諸本とその伝来に関する史料を集成した。『医心方』の諸本としては、仁和寺本(五巻五冊が現存。国宝)・成簣堂文庫本(巻二十二。重文)・万延元年医学館校刻本(版木の若干は東京大学総合図書館に伝存)等が著名であるが、その写本系統は大別して二つに分れる。一つは仁和寺本である。仁和寺に伝わった『医心方』や丹波氏の奥書のある諸医書は、十六世紀末に丹波重長の嫡子でありながら和気尚成の養嗣と為った和気明重の子である心蓮院奝恰を介して仁和寺の所蔵に帰したものであるらしい。寛政二年(一七九〇)に多紀元悳が幕府医官の力をもって仁和寺から借り出した時は、整理の結果十六巻十六冊あった(他に本草書残簡一冊)。元悳はこの十六冊を写し、更に多紀家所蔵の零本(巻二・四・二十二)の写本を加えて十九冊に編成し(本草書残簡を加えて二十冊)、幕府に納めた。これが内閣文庫所蔵の紅葉山文庫本である、それの副本の多紀元悳本(聿修党本、医学館本とも称される)は多数の写本が作られ流布した。仁和寺本は次の半井家本に比し本文が少なく、宇治本に近い。
 いま一つは半井家本である。半井家本は未だ公開されていないが、同本を底本として行なわれた安政元年(一八五四)からの医学館の書写校正模刻事業の記録が森立之により『医心方提要』(故石原明氏所蔵)としてまとめられている。石原氏の御好意により『医心方出世原因之手簡』と共に、その大部分を翻刻させていただいた(但し、朱墨、前後筆の別は表記しなかった)。半井家本は、朝廷所蔵の御本に、天養二年(一一四五)に仁和寺本と同系の宇治本(藤原忠実所持本)から移点した二十五巻に、保安・大治頃(一一ニ〇年代)の文書(その点数は数十に及ぶらしい)や長承二年(一一三三)の具注暦の裏を利用した巻二十五・二十九の二巻、鎌倉期の補写の巻四、江戸初期の書写になる巻二十二(御本巻二十二の分離のための補巻)・二十五未・二十八(冊子)の三巻を取り合せた写本である。半井家本中の御本から江戸初期に分離したのが成簣堂文庫本巻二十二である。半井家本の中核の御本は、宇治本・仁和寺本より増補が多い。半井家本は正親町天皇より下賜されたものと伝承があるが、既に鎌倉期から和気氏に所蔵されていた可能性もある。半井家には他に、延慶二年の書写の十六冊十二巻半(延慶本)に江戸中期に欠巻分を補って三十六冊三十巻とした別本が所蔵されていたが、安政二年の地震の際に江戸の半井家屋敷で焼失してしまった。その書誌は『医心方提要』や杏雨書屋所蔵の『医心方筆記』により窺われる。
(略)
(目次一六頁、本文三八八頁、挿入図版一葉)
担当者 土田直鎭・林幹彌・石上英一・厚谷和雄
『東京大学史料編纂所報』第17号p.37

世の人は、この『大日本史料』の記述により
 『医心方提要』は東大史料編纂所に収められている
と思うかも知れないけど、実は、東大史料編纂所は、『医心方提要』を借り受けただけで、その後保管していたわけではない。史料編纂所にしてみると、重要な部分を飜刻したあとは、もう
 用なし
なのである。

この『医心方提要』が古書市場に姿を現したのが
 昨年の「古典籍展観大入札会」
だった。こちらが図録で
 372 医心方提要 森立之筆 嘉永七年序 虫損有 一冊
とある。この
 虫損有
の実態が、小曽戸洋先生の学会発表で明らかになった。

小曽戸先生は真柳誠先生達と30年前に、
 『医心方提要』の原本調査
をされたことがある。その時、写真に原本を収めてあった。
今回、小曽戸先生が、杏雨書屋に収められた『医心方提要』の購入直後の写真を公表されたのだが
 手の施しようがないほど、虫損が進んでいた
のである。会場からは悲鳴にも似た声が上がった。
杏雨書屋では、30年前の写真とともに、専門家に修復を依頼、現在は、修復が成っていて、売り立て当時の
 開けないほどの虫損という惨状
から、書籍として扱える状態に直っているけれども
 虫損してしまった部分は永遠に失われた
ことになる。

森立之の字は読みにくいからな。
虫損で、
 より読みにくくなった
ってことに。

おまけ。
上記『大日本史料』の解説時点では、半井家本『医心方』は秘本だったけれども、その後、文化庁が買い上げ、現在は、e国宝で全編をweb閲覧することが出来る。


医心方

国宝 指定名称:医心方(半井家本)30巻 紙本墨書 平安時代・12世紀
東京国立博物館 B-3178
 『医心方』(全30巻)は、日本に現存する最古の医学書。永観2年(984)に丹波康頼(たんばのやすより 912-995)が、中国の多くの医書を引用して病気の原因や治療法を述べたものである。この写本は、諸写本の中で最も古く、全巻そろっており、27巻分は平安時代に、1巻は鎌倉時代に書写され、2巻と1冊は江戸時代に補われたものである。平安時代の写本のうち25巻分は楮(こうぞ)の料紙に10人前後による分担書写である。また、本文を読み下すため朱や墨で仮名、注記、各種の符号が書き込まれ、当時の読み方を知る貴重な資料である。別本の2巻には紙背に文書がある。
 本書は室町時代に正親町(おおぎまち)天皇から典薬頭(てんやくのかみ)の半井光成(なからいみつなり)に下賜されたと伝えられ、「半井家本」と呼ばれる。半井家では門外不出としてきたため、安政1年(1854)幕府に貸し出されたほかは、近年まで公開されることがなかった。

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