東日本大震災 瘴気(ミアスマ)の正体 ヘドロ除去が進まず、今後感染症等の拡大が憂慮される状態 蠅や蚊など有害昆虫も大量発生 避難所では給食は常温保存のため食中毒も懸念材料
かつて
瘴気(ミアスマ)がある種の疾病の原因である
と信じられていた時期が長く続いていた。
その土地に行くと、ある病気になる
というのが、ミアスマ説で、今でも
水が変わって、体調が悪い
という言い方は、ミアスマ説の残滓を引きずっている。
その
瘴気の正体の一つを明かす
のが、この記事である。毎日より。
東日本大震災:被災地沿岸部の大量ヘドロ、処理進まず 感染症拡大の恐れ手つかずのヘドロ。夏になれば、感染症の原因なる細菌類が増加する=福島県南相馬市鹿島区で、2011年6月3日午後1時28分、神保圭作撮影
東日本大震災の被災地では沿岸部を中心に海底から巻き上げられた大量のヘドロが放置され、今後、梅雨や夏場にかけてヘドロ内の細菌類が増殖し、住民に感染症が広がることが懸念されている。だが、被災3県はヘドロの総量さえ把握できておらず、専門家は「国の全面的な支援で早急に取り除くべきだ」と警告している。
福島県相馬市の沿岸部では乾燥した路上のヘドロが粉じんとなり、砂煙のように舞って視界を遮る。6月初め、浸水した自宅を片付けていた男性(57)は「震災直後より臭いがきつくなった。マスクが手放せない」。周辺の水田は真っ黒なヘドロに覆われ羽虫が大量発生し、「駆除したいが、広すぎて自分では無理」とあきらめ顔だ。
市は当面の対応として噴霧器を4台購入し、近く沿岸部で消毒剤の散布を始める。市建設部の担当者は「市内のヘドロは浸水面積から推定すると約200万立方メートル。がれきの量の数倍から10倍はあるだろう。消毒剤を散布しても抜本的な解決にはならないが、できることからやっていくしかない」と話す。
東京大医学部国際保健政策学教室の渋谷健司教授(45)によると、ヘドロの中には中毒症状を引き起こす有毒物質のほか、感染症の原因となる破傷風菌やレジオネラ菌、ノロウイルスなどがいる。梅雨に入るとヘドロは雨で広範囲に広がり、菌も増殖。夏には乾燥して粉じんになり、体内に入りやすくなる。「高齢者や体力が弱った人は命にかかわる恐れもある。今回のように大量にヘドロが発生した災害での医学的報告はなく、健康への影響は計り知れない」という。
福島県の場合、福島第1原発事故による放射性物質の影響もあって処理が進まないが、岩手県や宮城県でも「がれきの処理を優先しており、ヘドロにはほとんど手を付けられていない」状態だ。
渋谷教授は「震災でヘドロをかぶった土地は広範囲にわたり、市町村では到底対処できない。放置が長引くほど健康被害のリスクは高まる」と、一刻も早い対策を求めている。【神保圭作】毎日新聞 2011年6月6日 東京朝刊
津波で陸地に押し寄せた
ヘドロ
が、
有害物質や感染症の原因となる病原菌やウイルスを含む
という。
ヘドロだけではない。
蠅や蚊等の有害昆虫も大量発生
している。6/5付河北新報より。
腐敗水産物にハエ、避難所に蚊 梅雨目前、衛生面に腐心ハエの大量発生を受け、被災地で殺虫剤の散布が始まった=1日、気仙沼市の階上地区
避難者から寝具の管理状況などを聞き取るボランティア=5月29日、石巻市湊小
東日本大震災で大きな被害を受けた岩手、宮城両県の沿岸自治体では、梅雨入りを前に、衛生環境面の悪化が懸念されている。宮城県気仙沼市などでは放置された魚介類から発生した悪臭やハエが住民を悩ませており、同石巻市の避難所でもハエや蚊が増えている。各自治体は関係機関と連携し、殺虫剤の散布など具体的な対策に乗りだした。
◎腐敗水産物にハエ群がる・気仙沼/3000平方メートルに殺虫剤散布
気仙沼市階上地区は、気仙沼向洋高の校舎4階まで津波が押し寄せるなど大打撃を受けた。近くの水産加工会社も被災し、田んぼや水路などに大量のサンマやサメの切り身などが流出。気温の上昇とともに強烈な腐敗臭を放っている。
最近は大量のハエが飛び交うようになった。地元の介護ヘルパー平田冨喜子さん(55)は「窓が開けられない。干した洗濯物にハエが卵を産み付け、洗い直すこともある」とうんざり顔だ。
市は1日、非政府組織(NGO)の協力を受け、地区の約3000平方メートルに殺虫剤を散布した。岩手県でも、陸前高田市や大船渡市などで駆除を始めつつある。
被災地で害虫駆除に取り組む日本ペストコントロール協会(東京)によると、ハエは腸管出血性大腸菌などを媒介し、食中毒の原因になる。協会は「野外の炊き出しにもハエが群がるようになった」と注意を促す。
腐敗した魚介類の処分は冷凍・冷蔵施設が中心で、各自治体とも農地や水路に流出したものまで手が回らない。大船渡市は魚介類の埋め立て地に消臭液を散布するなど対応に苦慮している。
今後は蚊の大量発生にも注意が必要だ。他人の血液を媒介し、感染症を拡大させる恐れがある。
日本ペストコントロール協会は「津波被災地の水たまりは今のところ塩分濃度が高く、ボウフラの発生は抑えられている。梅雨に入れば真水に近づくので、水たまりをなくすなど早めに手を打ってほしい」としている。◎避難所の蚊・ダニ深刻に・石巻/不安解消、聞き取り調査
石巻市では5月27日現在、7414人が学校や公民館など99カ所で避難生活を送っている。衛生環境の維持に向け、各避難所では消石灰の散布や入室前の手の消毒などが行われているが、仮設トイレやごみ置き場にはハエや蚊などが以前より多く飛ぶようになった。
石巻市湊小に避難している無職女性(72)は5月中旬、全身のかゆみに悩まされた。風呂のサービスを利用することで解消されたが「肌が敏感になっているとすれば、これからの時季は蚊やダニなどが心配」という。
市は4月から業者に消毒薬の散布を委託しているが、衛生環境の悪化を懸念する市民の声を受け、今月からは石巻薬剤師会と連携し、臨時職員が15人態勢でハエや蚊などの被害が深刻化するとみられる避難所17カ所の仮設トイレやごみ置き場に殺虫剤をまいている。
石巻で活動中のボランティア団体で構成する石巻災害復興支援協議会は組織内に「ダニ・バスターズ」を結成。寝具の管理状態などを避難者から聞き取り、こまめな清掃を呼び掛けるほか、布団乾燥機や空気清浄器の調達も検討している。
食中毒を不安視する声もある。ほとんどの避難所では冷蔵庫が設置されていないため、配給される弁当やパン、おにぎりなどの食事は常温で保管しているからだ。
市は宮城県に冷蔵庫と扇風機の確保を要請し、50人以上が避難する60~70カ所に配備する計画を立てた。配給の食事は保管せずに食べきるなど、避難所内のルール徹底も呼び掛ける。
市避難所運営対策室は「避難生活が梅雨時に差し掛かった災害は先例が少ないため、情報収集と衛生管理が急務。適切で柔軟な衛生対策を目指す」としている。2011年06月05日日曜日
津波で、多くの土地が水没し、地震で土地が沈降した場所もあり、
水が貯まりやすい、あるいはじめじめした状況
は今も変わらない。
そして、梅雨時まで避難所生活が続くということは想定されていなかったので、梅雨から夏に向けて、大量発生する恐れのある有害昆虫によるさまざまな健康被害の恐れが出てきた。
被害を受けたところが、漁業の盛んな地域であったため、
冷凍・冷蔵されていた魚介類の腐敗
が進むと、有害昆虫にとっては、まさに理想的な環境だ。
50年前には、よく見られた
不衛生な状態が21世紀に現出
してしまった。少なくとも21世紀には21世紀の知恵と対策があるはずで、
最少の努力で最大の効果が上がるような方策
を、是非実現してほしい。
おまけ。
東大で微生物の研究をされていた柳田友道先生のサイト年寄りの 手なぐさみ 柳田友道の小部屋より。
60年以上前の日本の大学には「腐敗研究所」があった
という。
大学生活---思い出すままに
(略)
千葉大学腐敗研究所でのことども#腐敗研究所の名称と生い立ち
私が1953(昭和28)年1月に赴任した。この研究所は現在の習志野市にあって、戦前の陸軍の毒ガス研究所の施設を転用した研究所であり、千葉市の大学本キャンパスとは離れていた。私は東京中野の自宅から通勤したが、当時の交通事情では毎日は通いきれず、週に何回か研究所構内にあった旧陸軍の宿舎で寝泊まりしていた。
さて本研究所の名称には「腐敗」という文字がついていて、今でこそ異様に感じられるが、本研究所は戦争直後の冷蔵庫も氷もなく、食品腐敗による食中毒で日本中が困り果てていた頃、1946(昭和21)年9月に設置されたのであって、時代に即応した極めてユニークな存在であった。微生物学、薬理学、薬学系の部門で構成されていて、私はその薬学系の部門を担当した。
私は着任後しばらくして、ノーベル賞受賞者、S. A. Waksman博士が来日された折り、ワクスマン記念研究費を授与されたが、そのパーテイーの席上、自己紹介で私の所属を博士に説明した際、"Institute of Putrefaction" と、そのものズバリで伝えたところ、彼は鼻をつまむ格好をしてびっくりしていたことがあった。そこで本研究所がそれまで使用していたこの欧名では国際的にはまずいと判断して、教授会に諮り、以後は"Institute of Food Microbiology"と変更することになった。
本研究所は私の転出後、1987(昭和62)年に廃止転換されて「生物活性研究所」となり、さらに1997(平成9)年、現在の「真菌医学研究センター」に改組されている。#苦しかった時代を象徴する研究
本研究所で印象的だったのは他の研究部門で研究していた食中毒の研究現場であった。その部門では食中毒の研究をするために、民間からボランテイア(賃金支給)を募り、特定の細菌で腐敗させた食品を食べてもらい、その後の中毒症状を観察し、当時出回っていた抗生物質などで治療実験を実施したのであった。当時はまだ戦後で大衆は貧困に喘えいでいたので、応募者に対しては事前に下痢嘔吐を伴う食中毒症状を起こすことなどを十分に説明をしたにも関わらず、多くの応募者が集まってきた。そして中には中毒症状でかなり苦しんだ人でも、複数回応募する人もいたようであった。今ではこの種の人体実験は決して許されるとは思わないが、戦後という混乱期には研究者もぎりぎりの判断を迫られながら、食中毒予防を期した実験に携わっていたのであった。
(以下略)
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