Disciplineが違うと言うこと 日本古代史の文献を扱う時に
日本古代史の文献は
漢文で書いてあるのが大部分
だ。ということは、正しく漢文を読むために
普通は中国語の勉強もする
ので、これは日本人以外の外国人がアプローチする場合の話。ところが
日本人は必ずしも中国語の勉強をしない
のである。
日本古代史の文献を読むために必要な中国語学力は
当時の日本人が必要とされていた中国語学力と同等かそれ以上
ということになる。つまり
漢文と称される中国語文言を読む能力が必要
だ。残念ながら、日本古代史研究者で
系統的に中国語文言を読む努力をしてきた研究者
は甚だ少ない。さらに
中国語文言を支える、中国語学史の勉強
となるともっと少ない。元々中国語学史自体、中国学が専門の人の多くが不得意とする分野だから、難しいんだけど、まあ、普通に勉強すれば、何とかなる。てか、わたしの場合は
音韻はパーなんで
とか言い訳するのはみっともない、と教えられた。
脳味噌が付いてるなら、音韻学の勉強は出来るやろ
と突っ込まれるか、こいつはやる気もないし、出来ないからと、放置されるかのどちらかである。
なんでこんなことを言い出したかというと、最近
disciplineの違いによる「相互不理解」を立て続けに経験
したからで、それは
日本古代史の文献の裏にある、中国の文献や学術に関する知識の欠如
などが原因しているのだった。中哲・中文・東洋史の学部の必要な授業に2年くらい真面目に通えば解決する問題なんだけどね。少なくとも
十三経注疏
二十四史の唐代までの分(全部じゃなくていいけど)
文選
くらいは読めるようにしておいてもらいたいと常に思う。(てか、そうじゃないと読めない個所があるだろう、『大漢和辞典』に何でも書いてあると思ったら大間違いだ)
以前にも『論語』木簡の一節を、
日本人の人名の一部
に読まれた経験があるので、日本古代史プロパーの研究者が、得体の知れない漢字で書かれた文献を読む場合に、何があっても驚かなくなってはいるのだが。少なくとも
その木簡、その文書、その書物を書いた人間は自分より漢籍を読んでいる
と考えて欲しいと思う。今ならオンラインでいくらでも調べられるんだし。
ところで、disciplineの違いによる相互不理解なのだが、森博達先生は、根気よく、井上亘氏の「反論」に答えておられるので、頭が下がる。基本的に
井上亘氏の中国語音韻学に関する知識の問題に起因すると思われる誤解
に答えておられるのだが、こういう論争は、おそらく中国語学のdisciplineを経ていない井上亘氏には、
到底納得できない
という話になっちゃんだろうな。井上氏が、自己流でなく、ちゃんと言語学もしくは中国語学の専門の授業等で勉強しました、というのなら、今回の論争については、もう何とも言えない。
中国語学、特に音韻学は非常にセンスを要求する分野で、わたしはそのセンスに著しく欠けているので手は出さないが、一応、基本的な部分は勉強した。授業はほんの少ししかなかったので、足りない部分は自分で中国を含む海外や日本の研究者の中国語音韻学関連の書物を集中的に読んだ。
これから勉強するつもりのある人は、古い書物だけど、初級向けにはこれがいいかな、と思う。
言語 (中国文化叢書) 大修館書店
日本古代史のみをこれまで勉強してきた研究者で、中国出典の文献の内容および音韻の話まで踏み込むつもりがあるなら、少なくとも
中国語・中国文学および中国哲学専修の門を叩いて、2年くらいゼミに参加する
くらいの準備が必要だと思う。もし、幸いに
説文解字
もしくは
経典釈文序録
の授業があるなら、それでもよい。『説文解字』や『経典釈文』を扱う授業なら、音韻についても触れるだろう。
森博達先生の反論については、こちらに。
井上亘氏の「応答」を読んで……森博達氏自身による反論
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