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2011-09-22

「『日本書紀』の記述と合致」という紀年大刀に関する疑問 紀年と暦 庚寅銘は元嘉暦なのか

昨日、台風のニュースに埋もれて目立たなかったのだが、
 九州で庚寅の紀年の大刀が見つかり、暦を調べたら元嘉暦を使っていて、570年のものと判明した
というニュースが各メディアに取り上げられた。

暦との関連を割と分かりやすく書いていたのが産経。


西暦570年示す「庚寅」銘文の大刀出土 日本最古、暦使用例か
2011.9.22 09:40

福岡市西区の元岡古墳群で出土した鉄製の大刀。左はエックス線写真で、長円で囲まれた部分に「庚寅」など19文字の銘文が象眼されている

 ■福岡 元岡古墳群

 福岡市教育委員会は21日、同市西区の元岡古墳群(7世紀中ごろ)で、西暦570年を示すとみられる「庚寅(こういん)」や「正月六日」など19文字の銘文が象眼された鉄製の大刀が出土したと発表した。
 調査を指導した九州大の坂上康俊教授によると、大刀の製造年代を示すとみられる「庚寅」は、南朝の宋から百済経由でもたらされた「元嘉(げんか)暦」に基づく干支(かんし)とみられ、暦法使用の実例としては日本最古の発見という。
 坂上教授は「元嘉暦は554年には大和政権にもたらされたと考えられ、大刀の銘文は元嘉暦の伝来からほどなく日本列島で使われていた証拠。画期的な資料だ」と話している。
 市教委によると、銘文にある年号と、正月六日の日付を示す干支がともに「庚寅」であることから、元嘉暦に照らすと570年に当たるという。

 大刀は長さ約75センチ。表面がさびで覆われていたが、エックス線撮影で、刀の背の部分に「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の19文字が象眼されているのが確認された。銘文は刀が作られた年月日などを記しているとみられ、最後の文字は「練」の可能性もあるといい「すべてよく練りきたえた刀」という意味が考えられるという。

 大刀が出土したのは元岡古墳群のG6号墳(直径18メートル)で、古墳時代では国内最大級の全長約12センチの銅鈴も見つかっており、被葬者は有力豪族とみられるという。

 現地説明会は23日午前10時から、福岡市西区元岡の発掘現場で。
                  
【用語解説】元嘉暦

 中国南朝宋の天文学者・何承天が編纂(へんさん)した暦法で、中国や日本で使われていた太陰太陽暦。南朝の宋、斉、梁の諸王朝で、445年から509年まで用いられた。百済へは宋から伝えられ、661年の滅亡まで使用された。日本には6世紀ごろ、百済から招いた暦博士が大和政権にもたらしたと考えられている。「日本書紀」の暦日が5世紀中ごろから元嘉暦の計算と合うことから、日本でも元嘉暦を用いていたと推定されている。

えっと、よく分からないのが
 庚寅年で正月六日が庚寅になるのは元嘉暦
という推論。

この当時、中国では、元嘉暦ではなく
 大明暦を使ってた
ってことなんだが、中国の正史で
 庚寅年=570年の正月朔日の干支
を調べてみた。この年は
 南朝の陳では太建二年
 北朝の北斉では武平元年
に当たる。
まずは、
 陳書
だが、
 二年春正月乙酉、以征西大將軍・開府儀同三司・郢州刺史黃法為中權大將軍。
しか書いてないので、朔日の干支は不明だが、『資治通鑑』は
 春、正月、乙酉朔、齊改元武平。
として
 乙酉=正月朔
としている。
で、北朝の方は、
 北史

 武平元年春正月乙酉朔、改元。
とし、同じく
 北斉書

 武平元年春正月乙酉朔、改元。

 いずれも、570年は正月朔日は乙酉
になる。
正月六日は、乙酉が朔日とすると、干支を数えれば
 乙酉(元日)丙戌(二日)丁亥(三日)戊子(四日)己丑(五日)庚寅(六日)
となり
 元嘉暦に基づかなくても、570年の正月六日の干支は庚寅
ということになる。

というわけで
 正月六日が庚寅だから元嘉暦使用
って推論、おかしくね?とか思ってる訳なんですが。
まさか
 『日本暦日原典』とか『日本暦日便覧』とかだけ見て、中国の暦は見てない
とかいう話じゃないよね?

大体、
 出土地点が九州
でしょ? 果たして
 『日本書紀』の記述が史実
とまで言えるかどうか。
九州は
 朝鮮とも近いし、中国からも渡ってこられる場所
だ。
 銘を刻んだ人間の基づいている暦が「大和政権の暦かどうか」
は、この紀年だけでは不明。中国や朝鮮の暦を使っていた可能性は否定できない。

なおかつ
 庚寅年の庚寅の日
という年の陰陽五行思想的意味も重要で、
 庚 五行金の「兄」(陽)
であり、寅も陽だ。『五行大義』を繙けば、
 河圖云、甲寅乙卯天地合、丙寅丁卯日月合、戊寅己卯人民合、庚寅辛卯金石合、壬寅癸卯江河合。
とあり、
 庚寅は金属の鍛錬に適した干支
であろうことは推測できる。ちなみに『五行大義』は隋の蕭吉が編んだものだが、この『河圖』のような、現在は佚書となっている古い書物を大量に引用していることで知られる。

てことは
 庚寅年庚寅日という紀年自体が「ホンモノの紀年かどうかも謎」
ってことだ。
 刀を打つのに適した年月日をたまたま入れてみました
って話かも知れず、
 大刀を製作した本当の紀年だとナイーブに信じる
のも、危ないんじゃないか。むしろ
 大刀の価値や機能を「向上」させるために刻まれた「呪術的銘」
と考える方が、まだしも納得できる。

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コメント

 初めてコメントさせていただきます。
 この剣は四寅剣と呼ばれる物で九州王朝の王者が重臣に配布したものと思われます。
又は百済から贈られた物か。
 参考までにNetにあった解説を添付致します。

 四寅剣 シインケン 

朝鮮、韓国・朝鮮半島の宝剣、伝統剣。儀礼用の剣。
四寅剣は、「寅年、寅月、寅日、寅時など寅の字が四度重なる時」に熔解鉄を注いで作るという宝剣だという。
高麗大博物館が所蔵の四寅剣は百済 武寧王陵から出土したもののようだ。これは82cmほどの剣だという。

寅(虎)は十二支の中で「陽」気が起こる時期を象徴し、寅の字が四度重なる四寅に作られた四寅剣は、 「陰」で邪悪な気運を斬り、国家の危機をはね除けるという「辟邪」の意味を含んでいるのだという。 王が新年に魔よけの祭祀などで用いたようだ。

普通、刃の片面に国家の困難を除くための呪文を篆書体の漢字で象眼し、 もう片面には二十八星宿図を描き入れる。

刃は銑鉄を焼入れして作り、柄には金属彫刻が入っていて、鞘は木で作って漆を塗ったり魚皮を付ける。

参考文献・出典
・快刀ホン・ギルドン
・韓国日報 [輝く指先-韓国の職人たち]

投稿: 横山一郎 | 2012-06-28 21:52

七支刀や江田・船山古墳および埼玉・稲荷山古墳の銘文とも併せて考える必要があると思います。これらは宮崎先生のお説に従って、雄略朝では当時の流行に従ったものであるとされることに賛意を表しますが、この九州の古墳は、詳細なことがわかりませんが、小型の円墳であるとのこと。であれば、6世紀の群集墳の中の一つではなかろうかと推察します。共伴した須恵器でもわかれば年代の決定も可能ですが、日本似もたらされたのち、継体朝では威信財の一つとして扱われ、中央集権の進展とともに地方豪族の墳墓も小型になってしまいますが、副装品にはかつてのその地の首長であったことを表すものが、よく出土します。同じ九州北部で小さな円墳から銀の冠が出土し、今、銀冠塚として知られています。とすればこの太刀も5世紀後半から6世紀初めに、年号を使っていなかった百済か日本で制作されたものが、継体朝に威信財の一つとして地方豪族に下賜されたもののひとつであるとも考えられます.干支がどこのものであるかは他の遺物との兼ね合いで慎重に検討すべきでしょう。なお、正月六日は鏡鑑の銘文では慣用句(火性の盛んなる日を表す)であり、特に意味はないようです.[庚寅]も同じようないみかもしれないともおもいますが、これに相当する年に特別な出来事でもあれば面白いのですが・・・検討する材料が見つかったことはうれしい出来事です。

投稿: 野本二六雄 | 2014-09-16 17:07

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