最短距離で最善解
結婚するなら、理系がいいと思っていた。理由は
最短距離で最善解
が、理解出来るから。いわゆる文系の人達の中には、この
最短距離で最善解という感覚がない
人がたまにいる。こればかりは感覚の問題なので、要は価値判断なのだが、一緒にいて、この感覚がないのは、実に辛い。パートナーとしてやっていく自信はない。
世の中、必ずしも
最短距離で最善解がベスト
というわけでもないようで、
簡単なことを難しく考える
人もいる。まあ、自分だって、疲れたりして判断力が落ちているときは
簡単なことを難しく考える
傾向があるので、そうなっていると気がついたときは、身体と頭を休めるようにしている。
下手の考え休むに似たり
で、補助線が思い浮かばないときは、根本的にダメなときなのだ。
自分を大きく見せようとして、簡単な問題を難しくしようとする人もいるけれども、その議論を聞かされている周囲は、だんだんといらいらしてくる。
世の中には自分より賢い人がたくさんいて、いま議論しているようなことは、すでに何度も議論されていて、でも、そのことを知らないでいて、その議論はあたかも自分だけができるのだという風なようすでいるのを一々指摘するのも面倒なので、適当に相づちを打って、話を引き取るのが、一般的な対応だろう。インド学の学生の頃、いつも恩師には
あなたのspeculation
としか言ってもらえなかった。それでもそのつまらないspeculationに時間を割いてくださったことには、感謝しても感謝し尽くせない。
学問の世界では、分野によっては
最短距離で最善解
とはいかない場合があるが、それ以外のこと、たとえば生活のいろんな決めごとなどでも、
最短距離で最善解
が見つかるかどうかは、重要だ。最善解が直観的に見えるかどうか、得られた解が最善であるのか、さらにブラッシュアップした方がいいのか、そうしたことを瞬時に見分けられているのか。
海外に出て帰ってくると、そんなことを考える。
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