河竹登志夫『黙阿弥』講談社学芸文庫
黙阿弥は、なぜ引退して
黙阿弥
を名乗ったのか。その謎を黙阿弥の曽孫である河竹登志夫が、遺された葛籠の中の文書から拾い上げ、幕末〜明治に掛けての
御一新による文化破壊と改新の嵐
に揉まれた、狂言作者河竹黙阿弥の苦悩と困難を跳ね返す強靱さを描き出す。
いや、面白かった。
元々、河竹登志夫の文章は
雑誌『四季の味』の連載
でファンになっていたので、この『黙阿弥』も文春文庫に入った早々に買い求めたのだが、本の山に埋もれて行方知れず、その後、年表を増補したこの講談社学芸文庫本を購入、やっと読み終えた。
この人の作品なくしては歌舞伎の幕が開かない、狂言作者河竹黙阿弥の芝居が、その持ち味故に、幕政下においても、明治政府下においても、何かと目の敵にされ、当局の圧迫に晒される。筆難を受けるそのたびごとに、黙阿弥は
ぎりぎりまで筆を凝らして、しかも咎めに触れない
よう、細心の注意を払って、
役者に親切、見物に親切、座元に親切の「三親切」
で工夫に工夫を重ね、当たりを取っていくのである。
演じる役者に親切
というのがまずは基本であり、当て書をする、役者のクセ、特長、苦手等を飲み込んだ上で、観客の時好に沿って、その役者の魅力を最大限に引き出す脚本を書くこと、それが黙阿弥の今に残る仕事の原点なのである。
当て書をした役者はとっくに世を去ったが、黙阿弥の芝居は残り、
新古演劇十種や新歌舞伎十八番などのお家芸
に選ばれ、繰り返し上演されている。
黙阿弥の芝居の内
かなりのものが明治以降に書かれた
というのも、驚きである。
明治政府の
演劇改良運動
によって、庶民の娯楽であった歌舞伎が
上流階級の観劇にふさわしいモノに改変される過程
で多く書かれたのが、
能・狂言を題材に能舞台を真似た舞台で演じられる松羽目物
で、黙阿弥の書いた土蜘や船弁慶、釣狐、茨木もその流れだったりするのだ。
河竹登志夫は、引退に際して「黙阿弥」と名乗ったのは
いまは「黙」って身を引くがその内「もとのもくあみ」、狂言作家として戻る
というのが真意である、という。
14歳ですでに放蕩に明け暮れていた、生粋の江戸の人黙阿弥は
いかに柔軟にお上からの無理難題を捌くか
ということには、長い修練を積んでいる。上には
恐れ入りました
という体を見せておいて、
結果的に実を取る
のが、江戸っ子の粹、薩長土肥の田舎者が貴顕として跳梁跋扈する明治の世でも、野暮な田舎者を強靱な意志の力でやり過ごし、
座付き作者
としてのつとめを果たし、引退の後は、座付きという束縛からも自由になって、思うさま、筆を運んだ。若い頃はニワカ好きだったという黙阿弥は
しゃれのめす、柳に風と受け流す
という、江戸庶民の
最強の抵抗の武器
を磨き上げて、温容を崩さず、
明治政府の野暮天役人や御用学者を一蹴
したのである。
黙阿弥については、文化庁デジタルライブラリーにオンラインの解説がある。
文化デジタルライブラリー
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コメント
明治期になって、天覧歌舞伎が明治19年だったと思いますが、催された時には大変な騒ぎだったと聞きます。
井上馨邸か岩倉卿邸に確か舞台が作られて、将軍でさえ能だったのに、
さらに当時社会的に低く遇されてきた「天覧」で「歌舞伎」だったので。
ただ井上か伊藤かが非常に好きだったから実現出来たと聞いています。(誰からやねん!マニアは見てきたように語る。)
明治期というのもむべなるかな、という感想です。
投稿: hexan | 2012-05-20 02:01