『死体が語る歴史 古病理学が明かす世界』フィリップ・シャルリエ 吉田春美訳 2008年9月 河出書房新社
原著は
Médecin des Morts, 2006, Librairie Arthème Fayard
本書は1977年生の比較的若い病理解剖学・法医学・古病理学を専門とするフランスのフィリップ・シャルリエ博士が、一般向けに古病理学を、実例を挙げてわかりやすく解説した書物である。長短合わせて28編の古病理学に関する文章と、世界に点在する古病理学歴史案内、それに詳細な文献リストから成る。古病理学という学問分野自体が、極めて新しい分野であることから、シャルリエ博士が実際に調査に携わった実例を基に、本書は書かれている。
その調査範囲の広いことといったら! まあ、なんて羨ましいのだろう。オレルアンの少女ジャンヌダルクの「遺骨」の真偽、歴代フランス国王とその家族の遺体との病理学的対話、ギリシャ・ローマ時代の古い遺体の所見等、科学の目から検証されたヨーロッパの歴史がみっしり詰まっている。新しい学問分野だから、研究者同士の連携も密接で、あちこちの現場で何が起きているのか、さまざまな古病理学の現場とその歴史・経緯が、簡潔にまとめられている。
中でも目を引いたのは、
先コロンブス時代の人骨からたどる関節リウマチの歴史
と
「鼻利き」の古病理学
だ。前者は、関節リウマチが、新世界発見以前は、ヨーロッパに於いては極めて散発的にしか見られない珍しい病気である一方、アメリカ大陸では、比較的頻繁に人骨から症例を拾うことが出来る「風土病」であったことを指摘している。アジアの関節リウマチに関する資料は乏しいようだが、この辺り、実際はどうなのか、それを知りたい。後者は、
フランスが誇る「鼻」の専門家
即ち
ゲランとジャン・パトゥの調香師
に
異なった時代と地域の試料を直接嗅いで貰う
のだが、その嗅覚の鋭さたるや、
試料の入っている容器そのものに付着した臭い
や
部屋の臭い、複数のドアを隔てた向こうのコーヒーの匂い
まで嗅ぎ分けてしまうのである。そうなると
試料の「信頼性」
が、
保存時の外的条件に脅かされる
わけで、なんと人間の鼻というのは、すごい能力を秘めているのかと、驚かずにはいられない。
もう一つ、本書を魅力的にしているのは、ギリシャ・ローマの古代の遺体に関する文章では、ギリシャ・ローマの古典が
当然のものとして鏤められている点
だ。これが日本の古病理学の研究者の著作であれば
漢文・古文が鏤められる
ことになるのだが、シャルリエ博士の域まで訓練された古病理学の研究者が果たして日本に存在するかどうか、甚だ心許ない。ヨーロッパに存在する、中高で古典語(ギリシャ語・ラテン語)をみっちり勉強するシステムが、この叙述を支えているのだが、日本ではそんな学校はほとんどないと言っていいだろう。さらに言えば
理系に古文・漢文などどうでもいい
という学校だってあるだろう。古典をゆるがせにしない
ヨーロッパ的教養
が、新しい学問分野の一般向け著作でも、当たり前に披瀝され、それを普通のものとして受け止める読者がいて、初めて本書は成り立つのである。
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コメント
いや分かります。つい最近リチャード3世の骨が見つかりました。数百年以上のかくれんぼでした(笑)。
"A horse, a horse, my kingdom for a horse!”
個人的には好きな人間です。
日本は不思議なことに周辺の国よりも漢字の文献が多く残っていて 日本人自体も中国の歴史といえば三国志や司馬遷の著述が好きな人が多いのです。むしろ漢文やラテン語をみっちりやる人間こそ本邦でも育てるべきと感じています。
投稿: Bugsy | 2013-07-08 01:29