食べたいといったときに食べさせて上げよう
仏教の十二支因縁の最初は
無明
だ。煩悩の無知故に、人間はこの世に存在する。真の智慧は、煩悩にくらまされて、真実が見えない。だから、いろんな判断を誤る。
半年余りで、極身近な家族を相次いで失った。
心残りがあるといえば、どちらにも
食べたい
と言ったときに、
食べたいと言ったものを食べさせて上げられなかった
ことだ。病の進行が思ったより早く、手配しようとしたときにはもう食べられる状態ではなかった。
仏前に食べたがっていたものを供えることは出来る。でも
美味しいよ
ありがとう
と、必ず言って、うんと喜んでくれた人達はもうこの世にはいない。
すぐに手配できなかったのは、
まだ元気で居てくれるだろう
という慢心があったとしか言いようがない。京都や関西には、北海道にはあまりないもので、二人が
そのうち食べたい
と言っていたものがいくつかあった。
ある程度の年齢になると、病は避けがたい。
病によって、食事を制限されることもあれば、病の加減で食べられなくなったり、好みが変わったりすることもある。
まだ幸いなことに、高齢の家族が何人か健在だ。
もし
少しでも美味しい
と思ってくれるなら。それだけでいいのだ。
死魔は、様々な大事なことを眩ませると聞く。正常な判断力を失わせ、残された者にたくさんの後悔をさせる。
誰もが死に瀕するときは、好物ももう殆ど口に出来なくなってしまうだろう。
そうなる前に、うんと元気な内、何でも食べられる状態のときに、もし何かを
食べたい
と言ったら、すぐに食べさせて上げよう。
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