何故、中国語の古典を勉強しようと思ったか
変な言い方だが、元々、視力に関しては、
蒲柳の質
で、大学に入った頃は
その内、辞書も読めなくなる
と思っていた。それで選んだのが、辞書を縦横に使い、一流の研究者になりたいのであれば、
細かい字で書かれた写本
を読む必要のある印度学だった。目の見える内にできることをやってみたい、という無謀な考えからだ。
程なく、印度学のプロになるには視力が到底足りなくなり始めたので、次に選んだのが、
中国学
で、特に
古典
の分野である。その時は
一文字当たりの情報量が印度学(表音文字)と漢字では異なるから
と説明していた。
さて。
突然思い立って、夏目漱石の漢文紀行文『木屑録』を読み始めた。それで、
何故中国語の古典を読もうと思ったか
その理由を思い出した。他ならぬこの『木屑録』がその原因の一つだった。
高校生の頃だったと思う。漱石の文章で
普通の人が読もうと思っても読めない作品がある
と聞かされて、図書室の漱石全集を開いてみた。それがこの『木屑録』である。漢文には自信があったが、白文で点も切っていない『木屑録』にあえなく敗退した。その時、
絶対にこの『木屑録』を読んでやる
と誓った。
もう一つの原動力は、さらに以前。小学校六年生の時に、日本史の勉強をするけれども、教科書だけではつまらない。手当たり次第に家にある書物を読んでいた時期だったので、
中央公論社の『日本の歴史』
を読み漁った。中でも
第一巻「神話から歴史へ」から第六巻「武士の登場」まで
は、繰り返し読んだ。高校卒業までに、あまりにも繰り返し読んだので、ハードカバーだった第一巻・第三巻「奈良の都」・第四巻「平安京」・第五巻「王朝の貴族」は、背が壊れてしまった。
この時、第三巻「奈良の都」で、『日本霊異記』『懐風藻』と『風土記』が取り上げられていた。印象に残ったのは
『風土記』の漢文に六朝の美文を真似て書かれている箇所がある
という指摘で、六朝風の何たるかが分からない小学生は
じゃあ、六朝の漢文が読めるようになりたい
と思った。
漱石の『木屑録』を入力しながら、
ああ、これを読むために、中文に行ったようなものだったな
と、とっくに忘れていた初心を思い出した。元々、文系志望ではなかったので、まさか将来自分が文学部に進むとは考えてもいなかったのだが、
『木屑録』や日本古代の漢文文献を「読みこなしたい」
という意欲はあった。
わたしは『漱石全集』は持っていない。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーには古い版の『漱石全集』が、デジタルコレクションの方には単行本の『木屑録』が入っている。単行本の『木屑録』は、湯浅廉孫が注釈を付けるという豪華版だ。どちらもダウンロードした。
たとえ注釈があったとしても、白文の点は自分で切るものだ。
さすがに勉強を重ねた甲斐があり、古い『漱石全集』に白文で掲載されている『木屑録』の点を切るのは、それほど難しくはない。『漱石全集』を前に茫然として、そっと書物を閉じた高校生の頃の自分に
やっと読めるようになったよ
と声を掛けたくなった。
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