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2016-08-11

上代文献を読む会『上代写経識語注釈』勉誠出版 2016.2 14040円 あるいは何故「漢文」は舐められるのか(追記あり)

大学の同級生が
 上代文献を読む会『上代写経識語注釈』勉誠出版 2016
を贈ってくれた。多謝。正倉院展というと、きらびやかな工芸品よりも
 文書や仏典
に張り付いて眺めているわたしの好みに合わせてのことだ。まあ、正倉院展に出陳される仏典であれば、経題を見ないで、
 その場で読んで、どういう類の仏典のどの部分か当てるのを楽しみにしている
わたしも大抵なのだが。

総頁704頁に及ぶ巨冊だし、日本語で書かれた上代関連の文献は精査してあり、その点は非常に有益である。
何年もかけた研究会の成果で
 大変な労作
なのだけれども、一言で言えば
 甚だしく勿体ない
のだ。何が勿体ないかというと
 研究班に、中国学や中国仏教もしくはインド仏教のプロパーの研究者が含まれてない点
である。もし、
 中国学や中国仏教もしくはインド仏教のプロパーの研究者が含まれていた
ならば、本書は
 国内の古代史研究者のみならず、海外の仏教学・日本学・中国学の研究者を裨益する必携の書物
となっていただろう。学際的研究班を編成できなかったのは、大変に惜しいだけでなく、そうなっていれば、参加者にとっては
 出典調べや読解の苦労が半減
していたことは間違いない。

彼我の差は大きい。
たとえば
 岩波文庫 『高僧伝』
の共訳者である
 船山徹京大人文研教授
は、
 元々は印度学(仏教学専攻)の出身で、梵文で仏教論理学を研究していた研究者
である。京大の印度学では、梵語やPāli語、Tibet語等の古典文献は読むが、漢文は扱わなかった。漢文仏典は
 自助努力
で読むことになっていた。
船山教授は、その後、人文研に入り、みっちりと漢文の研鑽を積み、吉川忠夫先生と共に、岩波文庫の『高僧伝』の訳注を作った。吉川先生に直接伺ったところでは、あの詳細な注に
 船山教授の貢献は極めて大きい
とのことだった。

当時のカリキュラムでは、印度学で、2年間、学部で学ぶと
 漢訳仏典から元の梵文が透けて見える
ようになる。船山教授は、その上で
 漢文の仏教文献を読んでいる
のである。

上代の写経識語においても、同様に
 印度学と中国学の両方への目配りは欠かせない
のだが、残念ながら、本書の場合、
 漢語の用例は追っている
けれども、
 仏教用語に梵語等インドの言語による注がついてない
のである。漢訳では、一つの梵語に
 いくつも別な訳がついている場合
がある。こうした「差異」は
 元の梵語(なければやPāli語等)を示しておけば、混乱せずに済む
ので、仏教学の論文では、
 梵語に戻しておく
のが普通の手続だ。そうしたことが行われてないことからも
 印度学プロパーはいない
ことが分かる。
(追記 8/12 1:00
梵語に戻すというのは
 卒塔婆(skt. stūpa)
といったように
 注記しておく
ということだ。一々、全ての漢語を元の梵語にして、説明をせよ、ということではない。
もし、「梵語」に戻さないと何が起こるか。
漢訳仏典は、その訳出年代により
 古訳(鳩摩羅什〈skt. Kumārajīva 344-413〉以前の漢訳。)
 旧訳(鳩摩羅什以降、玄奘(600-664)以前の漢訳)
 新訳 唐・玄奘訳
に分けられる。新訳は、言語的に正確な飜訳を期したものだが、流麗さにおいては、鳩摩羅什訳には及ばないため、読誦には、今でも鳩摩羅什訳が使われていたりする。
例えば、般若経類で、最も古い漢訳は後漢の桓帝の建和元(147)年に首都洛陽に来たった支婁迦讖による
 『道行般若経』(大正蔵8、No. 224 訳出は霊帝の光和二(179)年)
であるが、梵本やその断片(1-2世紀)が見つかっており、唐の玄奘訳までに次のような異訳がある。
 呉・支謙訳『大明度経』
 前秦・曇摩蜱・竺佛念訳『摩訶般若鈔経』
 後秦・鳩摩羅什訳『小品般若波羅蜜経』
 唐・玄奘訳『大般若波羅蜜経・第四会』
 同『第五会』
これらの異訳経の中で、梵本に現れる
 māra(魔)
の訳語を比較すると
 弊魔 『道行般若経』
 弊邪 『大明度経』
 弊魔 『摩訶般若鈔経』
 悪魔 『小品般若波羅蜜経』
 悪魔 『大般若波羅蜜経・第四会』
 悪魔 『第五会』
となる。こうした「弊魔」「弊邪」「悪魔」いずれも
 māraの訳語
であり、個々の漢語をそれぞれ比較するだけでは、混乱に終わるだろう。中国語の初期の仏教用語の多くが訳語から生まれたものである以上、梵語の注記は、不要の混乱を避けるために行う。
(以上、
 中國宗教文獻研究國際シンポジウム報告書( 『佛典漢語 詞典』の構想 / 辛嶋靜志
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/65875/25/02Karashima.pdf
を参照のこと。)
(追記終わり)

この研究会に、中国学プロパーの研究者がいなかったことは、注釈のあちこちで触れられる
 出典調べの内容
で明かである。例えば、何の断りもなしに
 『書経』舜典
と書いてあると、やはりガッカリしてしまうのだ。現代の研究書であれば、何故、『偽古文尚書』の篇立てに従って出典を示したのか、一言書いておかねばなるまい。(ちなみに、先師尾崎雄二郎先生の『説文解字注』の学部・大学院共通演習で
 舜典
などと言おうモノなら、例え、その年初めて参加した3回生であろうとも許してもらえなかった。)
(追記 8/12 1:50
もし、『偽古文尚書』を使うのであれば、最初に
 五経の引用は『五経正義』に従う
と断っておけば良い。そのようなコメントなしで
 『書経』舜典
と書くと、日本の儒学経典受容史を知らない、一般的な中国儒学研究者である
 海外の研究者から無知を疑われる
ことになる。
追記終わり)
(追記 8/12 3:30
ところで「平成」だが、俗説によると、当時の竹下登首相はいたく「平成」を気に入っていたとかで、検討資料には「平成」が大きく書いてあり、他の候補とは扱いが違った、と伝えられている。
追記終わり)
(追記 8/12 11:30
『偽古文尚書』について。『集英社世界文学大事典』より。


中国,『尚書』(『書経』)のテクストの一種。58編。このテクストのうち,偽作の明らかな25編のみを『偽古文尚書』と呼ぶ場合もある。直接に現在のものにつながる『尚書』のテクストは東晋(とうしん)初年に出現した。そのテクストの大半の編は古い『今文(きんぶん)尚書』などを引き継いだものであったが,そのうちの25編は当時すでに失われていたものを古い引用文などによって補いつつ偽作したものであった。このテクストは,それまで序だけがのこり,本文が失われていた諸編が補われた,より完全なかたちをのこす『古文尚書』(古文とは,古い字体をいう)が新たに発見されたとして,公表された。(略)このテクストは『偽古文尚書』と呼ばれ,それに付けられていた孔安国の注も,漢代の孔安国のものではないとして,『偽孔伝』と呼ばれる。このテクストが唐代の『尚書正義』に採用されて,現行の『尚書』のテクストの基礎になったが,それに偽作の編が含まれていることについては,明清(みんしん)時期に閻若璩(えんじやくきよ)らによって最終的に確かめられた。
(小南一郎)

竹内照夫『四書五経 中国思想の形成と展開』東洋文庫 p.204上

『書経』も文献学的には多くの問題を持つ経書であり、近世以後の研究によると、漢代にまず今文書経が作られ、おくれて古文が発見されたが、古文の方が内容が多かった。しかし、漢朝の末から六朝の初期にかけて書経の原本は二種とも亡失され、そのころにたれかの再編集した古文テキストに従うものが、今に伝わる書経で、これには偽作的付加のあることが明瞭であって、正式には『偽古文尚書』とよばれているのである。

「舜典」について。
『孟子』萬章上
堯典曰、二十有八載放勛乃徂落、百姓如喪考妣、三年、四海遏密八音。
この『孟子』が「尭典」として引用する部分は、現行『尚書』では、「舜典」となっており、篇次が異なる。
(追記終わり)

中味は日本のものであっても
 漢文は元々は中国の文語文だ
という観点は必要だ。それも
 上代の漢文であれば、中国語との距離は今の日本語よりは余程近い
だろう。
 その漢文の作者に、漢文を教えたのは、「日本人とは限らない」
からだ。もちろん、日本の漢文には、
 和習
という問題も存在するけれども、それよりはまず
 正格の中国語文語文がきちんと読めるか
というところから始めるのが正攻法ではないのか。
 漢文訓読
とは、
 シンタックスの異なる中国語を日本語で読むための便法
であり、そもそも
 漢文は中国語であり、「外国語」だ
という意識がないと、思わぬ読み違いをしてしまう。少なくとも、上代の漢文を扱うのであれば、当時の日本の文化人の基礎教養の一つであり、木簡にもその名が出てくる
 『文選』
と、正倉院文書に書写や所蔵の記録が残っており、仏教関係者なら読んでいたと思われる
 『弘明集』
辺りを少し勉強しておいてから、読み始めても遅くはない。また、これも常識だが
 士大夫の中国語文語文(『文選』)と僧侶の中国語文語文(『弘明集』)とは性格が異なる
ので、片方のみで済ませるわけにも行かない。オーソドックスな中国語文語文はもちろん
 士大夫の漢文
である。僧侶の漢文は
 仏教梵語同様に「変格」の漢文
になる。
いくら上代の漢文であろうとも、
 書き手は、少なくともかなりの教養人
だから、
 識語を書いている人々の教養に追いつくという意識
がないと、
 見通しの悪い読み
になってしまうし、何より
 書き手への敬意を欠いている
のではないか。

『文選』や『弘明集』では
 駢文
にも立ち向かうことになる。実際、本書が扱う
 上代写経識語
には
 駢文
が用いられている箇所があるのだが、残念ながら
 駢文の構造に慣れていない
ようで、読み違えている部分がある。こうした辺りも
 中国学プロパーの研究者が参加していなかった
ために起こった躓きだろう。

もう、二十年近く
 古代史をやるのなら、中国語を習得して、それから漢文も中国語で勉強して欲しい。その方がわかりやすいし、いい教科書があるから。
と言っているのだが、大体は
 そんな面倒なことはイヤだ

 あくまで漢文で読めれば良い
と答える。それは、
 五経や『文選』等を当然の教養として勉強していた古代の書き手
よりも
 学力が劣る状態で「読む」
ことが、いかに不利であるかを自覚していないのではないか。

日本人は、明治まで
 教養人は漢文を習得
していた。もし、これまで中国語を習得していない、国史や国文を学んだり、研究している人々が
 漢文文献を扱う
予定があるならば、1日少しの時間でいい、いきなり『文選』は無理だし、独学は難しいから、高校の教科書にもその中の作品が採用されている
 唐宋八家文
辺りから少し選読するなりして、
 当時の日本人の中国語力に近づく努力
をして頂きたい。

しかし、
 勉誠出版
って
 日中文化交流史関連の出版
を手がけているんだけど、どうも
 中国学関連の校閲が甘い
ような気がしますね。それとも
 本書については、筆者達しか校閲に携わってない
のだろうか。そうだとすると、気の毒な話である。

おまけ。

上記で引いた
中國宗教文獻研究國際シンポジウム報告書( 『佛典漢語 詞典』の構想 / 辛嶋靜志
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/65875/25/02Karashima.pdf
では、一般的な中国古典文献にはほとんど見られないが、漢訳仏典には頻出する
 句末の「已」
に注目し、次のように述べている。


(二)已
漢訳仏典では、句末に用いて「......して」という意味を表す「已」が無数に見られる。(略)一方漢訳仏典以外の文献に、この用法の「已」が出ることは極めて稀である。このことから、この用法は原語となんらかの関係があるのではないかと推測される。そして実際に梵語仏典にあたってみると、この 用法の「已」の大多数が梵語の絶対分詞(Absolutive, Gerund)と対応していることが分かる(12。(略)おそらく、「〜して」を意味する絶対分詞を漢語に置き換える 際、漢訳者は「已」を使ったのであろう。梵語仏典には絶対分詞が多量に使われるから、 漢訳仏典でも「〜して」の意味の「已」が無数に現れるのである。
12) Cf. Seishi Karashima, A Glossary of Dharmarakṣa's Translation of the Lotus Sutra 正法華經詞典, Tokyo 1998 : The International Research Institute for Advanced Buddhology, Soka University (Bibliotheca Philologica et Philosophica Buddhica I), pp. 535~536; do., A Glossary of Kumārajīva's Translation of the Lotus Sutra 妙法蓮華經詞典, Tokyo 2001 : The International Research Institute for Advanced Buddhology, Soka University (Bibliotheca Philologica et Philosophica Buddhica IV), pp. 327〜329.

こうした「已」の用例のように、漢訳仏典の用語法には、元になる梵本や胡本との対照によって初めて明らかになるものが存在する。単に漢訳のみを眺めて
 〜已(おわ)んぬ
と読んでいればいい、という話ではない。こういう語法を見た時に
 何かおかしい
と感じないのであれば、残念ながら、いくら仏教漢文を訓読しても
 白話小説を伝統的訓読で読もうとする
のとあまり変わらないだろう。白話小説は、現代中国語を習得した上で、中国漢字音(普通は北京語)で上から下に(あるいは左から右に)読むのが20世紀以降のやり方である。
仏教文献を扱う場合
 印度学プロパーと中国学プロパーが必要
というのは、仏教漢文特有の問題が存在しているからだ。
 仏教漢文を読むのは、普通の中国語文語文を読むより、事態は複雑で、正しく読むためには、専門家の知恵を借りる必要がある
と、考える所以である。

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