他人に見えないところで弱者を差別する「善い人」達
相模原で起きた
差別的殺傷事件
には、発生当日朝から、気分が沈んだ。
亡くなられた方のご冥福をお祈りします。しかし、ご遺族には掛ける言葉がありません。
おけがをされた方々には、1日も速くご快癒されますように。
こうした
弱い者を平気で差別する人々
の中には
普段は「善い人」に見える部類の人々
が含まれる。誰に聞いても
○○さんはいい人だ
というような人物に、他人の見えないところでこっそり差別をされたことは少なくない。
こういった人の中には
休日は身障者へのボランティア活動をしている
ことを自慢にしている人物もいた。その人物にはわたしの顔を見ながら、
あんたに障碍者のことをあれこれ言われたくない(オレの方が理解している)
と言い放たれたことがある。もちろん、そうのたまわったご本人は健常者だ。視力が弱くて、ものに躓きやすいわたしの通り道に、大きな鞄をドンと置くような事もされた。もちろん、周囲の人には気が付かれない。その時は、わたしが躓くと、汚いことをされたような顔で、鞄をちょっとだけ避けて、今度は自分の足を置いた。どんなことがあっても
あんたはオレの考える障碍者ではないから、差別してもイイ
という考えは変わらず、
身障者が「優遇」されている。「不公平」だ
と蔭で主張していた。
あるいは
徹底した「不作為」
で、
見えないハラスメントを続ける人達
もいる。大変残念なのだが、人前で働いている人の中にたまにいる。
自分からは、絶対に「余計な手助けはしたくない」
のだ。手助け無しでは、いろいろと辛いことがあるのが分かっているのか、端から無視しているのか。最近も、あるところで、
みんながあの人はエラい
という人物に、結構な対応をされた。余りに酷いので
目が悪いのですが、侮蔑されているように感じて、残念です
と言ったところ、
そんなことはありませんよ
と、心外そうに答えた。必死でやっと抗議したわたしは、この言葉に大変傷ついた。
この人物の
不作為
は、非常に徹底している。視覚障碍者だということは以前から知っている筈なのだが
絶対に次に起こりうることを無視して、健常者と同様の「最小限のサービス」しかしない
のである。たとえば、
ある機械を操作したい
という時だ。その機械は薄暗いところにある。わたしは暗いところでは、そうでなくても弱い視力が格段に落ちる。ほぼ見えてないと言っても良い。その機械を操作するには、カードが必要なのだが、
まずはカードだけ渡す
のである。そして、よく見えないために、どう操作したらいいのか分からないので
再び問い合わせる
と、
作業を中断しやがって、実にめんどくさいことをする奴だ
という感じに席をそそくさと立って処理する。一緒に働いている人達に
こいつは「手の掛かる利用者で、めんどくさい」という印象
を与える効果は大だ。その日も、一緒に働いている、よく知らない人がわたしをにらんでいた。なにせ、その人物は
その職場や業界ではエラい人
なのである。こうしたことが続くと
その施設の利用が心理的に負担になっていく
のだ。
あるいは、
わざと、「失敗」を反復する行動
をする。勘違いしている事項を
驚いた様子で、もう一度繰り返させる
のである。
そんなことはありませんよ
の中味は
こうした、くだらない事項
で満たされていて、大抵何か
自信を失わせる対応
をするのが、ある意味素晴らしい。
しかし、これだけこうした行動が続くということは
その職場には「身障者対応マニュアルが存在しない」
のだろう。つまりは
身障者など利用して貰わなくて結構
ということなのだろうか。今年の4月から
障害者差別解消法
も施行されたことだし、1度、施設管理者に尋ねてみることにしよう。
ところで、弱者が必死に声を上げている時、適切な返答は
何がいけなかったのですか
と、尋ねることである。ひょっとしたら、互いに誤解があるかも知れない。
歩み寄るためのきっかけ
として、
強い方が一歩引いてみる
のが定石だ。だが、一切引かずに、
そんなことはありませんよ
という人間は
自分は正しい、あんたが被害妄想に陥っているのだ
というハラスメントを公然と行っているのである。歩み寄るつもりなど毛頭無いのだ。言われた方は、当然傷つく。
こうした人達は、
弱い者は、いくらいじめても大丈夫
と高をくくっているのか、あるいは
自分は「健康」だし、「身体が悪い癖に健常者の社会にしゃしゃり込んでくるあんたに余計な手間は掛けたくない」
と思っているのか、ともかくも、
弱者が声を上げた時
に
自分の行動は正当だ
と答えるのは、ハラスメント以外の何物でもない。声を上げた人を
更に辱める以外の効果はない
のである。弱い人間は
精一杯の勇気を振り絞って声を上げている
のだ。それすらあっさり無視して
「自分はいい人だ」という「自己イメージを守りたい」
のだから、恐らく、今後も改善することはないだろう。
健康のことでいうなら、端から勝負は付いている。
以前、わたしに辛く当たった人達の中には、老いにさしかかった人もいる。そうした人の中に、思いがけないところで遭遇すると
はっとしたような顔
をする人がいる。
どうせ、人間、年を重ねれば、若い頃のように、体調が十全とはいかなくなる。
あれほど、辛く当たっていた相手と同様に
視力が前よりも衰える
こともあるだろう。たぶん、はっとしている人達は、そうした
身体の不調を感じ始めた人達
なのだろう。それでも、何も言わない人の方が多い。
ある先師が退官された後、日本中国学会でお会いしたことがある。その時、先生は眼を病まれていて
いやあ、眼が見えんいうのは、鬱陶しいもんですなあ。よく、あなたの気持ちが分かりました。
と、笑っておられた。先生の同僚だった他の先師は、若い頃、眼を病まれ、しばらく研究を廃しておられたことがあった。恐らく、その時、先生は、その同僚の先生のことも思い出されたのではないか。若い頃は気が付かなかったことが、御自分が眼を病まれる段になって、心に浮かぶようになられたのでは、と推察している。
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